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吉丸 昌昭

Author:吉丸 昌昭
ドキュメンタリーの重鎮だった牛山純一氏の率いる日本映像記録センターに所属し、「すばらしい世界旅行」や「知られざる世界」などドキュメンタリー番組のカメラマンとして世界各国を取材。現在は、映像製作会社の代表プロデユーサーである。

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ドキュメンタリー映画「二つの故国をつなぐ歌」              その後の反響は
「二つの故国をつなぐ歌~Diva早春賦をうたう~」 このブログでは製作時のこぼれ話や上映後の反響などをご紹介していきます 。
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巨大地震 千葉浦安の現状
千葉の浦安(デズニーランドのある町)は首都・東京に隣接する町は舞浜や新浦安など市内の3/4が埋め立て
地が、液状化現象に見舞われた。今日、3月26日、この大震災でどのようになっているか取材した。TVニュー
スや新聞には余り注目されていない地域だ。
道路が液状化の影響で路面のタイルが浮き上がったり、傾いた住宅、電話ボックスなどが見舞われていた。

東京湾岸で液状化が起きた地域
P1040219.jpg

液状化の影響で舗装が浮き上がってしまった。
DSC_0056.jpg

公園が砂で覆われた。
DSC_0067.jpg

傾いた電話ボックス
DSC_0084.jpg

傾いた電話ボックスの中に「災害用伝言ダイヤル171」のページが開かれたままだった。
171は地震、噴火などの災害の発生により、被災地への通信が増加し、つながりにくい状況になった場合に
提供が開始される声の伝言板。
DSC_0081.jpg

JR新浦安の駅エレベーターは無惨に液状化の影響で地盤沈下していた。
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会場の向こうに蜃気楼のように見える新浦安市街
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見かけはりっぱであるが、基礎がしっかりしていないために長く維持できない物事のたとえ。
これがことわざ「砂上の楼閣」か・・・・
戸籍が消滅する
 東日本大震災の津波被 害で宮城県南三陸町が管理していた戸籍データが消失したことについ て、
「仙台法務局気仙沼支局に更新前の資料やその後の届け出書が残っ ており、再生は可能」と述べ、
関連資料を基に復元できるとの見通しを 示した。
 かつて66年前、日本は太平洋戦争で国土を爆弾で焦土化され、何百万の人びとが亡くなった。
我々世代が体験する初めての「国難」であった。
 下の写真は約70年前、昭和12年1月に撮影された筆者の家族の記念写真である。二人の幼子は
筆者の姉たちである。父に抱かれているのが二番目の姉だ。当時2才半。その後、昭和13年10月に
4才で亡くなった。
 
吉丸ルツ子

1944年11月14日以降に106回の空爆を受けたが、特に1945年3月10日、4月13日、4月15日、5月25日の空襲は大規模であった。特に、3月10日は実に10万人の人たちが亡くなった。
そして、筆者の旧本籍である「本郷区駒込動坂町327」現在の文京区千駄木にあたる。現在の戸籍謄本を見ると私たち兄弟は載っているが、昭和13年に亡くなった次女の姉は戸籍から抹消されていた。言い訳の様に”3月に原本焼失した”という説明文があり、書かれている戸籍は後に親族からの申し出により作り直したものだという。何故か、次女は戸籍から抹消されていた。





アチェからの連帯のメッセージ
2004年12月26日(日)、筆者は忘れられない。東日本大震災を遥かに上回る、17万人という犠牲者が出た
スマトラ沖地震と津波。日本の津波被災者に対する、連帯の意思表示が波紋を広げている。
昨日3月18日(金)、州都バンダアチェ(Banda Aceh)の中心部にあるブラン・パダン(Blang Padang)広場で、
犠牲者を悼む市民の集いが開かれた。「ACEH December 26, 2004 FOR JAPAN March 11, 2011」。
アチェは忘れない。日本からの、あの温かい支援の事を。

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バンダ・アチェの子供が、市内の「世界にありがとう広場」(Blang Padang広場)で、日の丸を手に、日本の
津波被災の早期復興を祈った(2011年3月18日・『Serambi Indonesia』紙から)

筆者のいとこ Mrs/SAKURA NARUKAYAさんの孫、DivaちゃんとDaisyさんはおよそ10mの津波を受けたが、
二人とも運良く助かった。しかし、妹の当時6才の三女は津波にのまれ亡くなった。

写真はDivaちゃん(2007年当時)
Diva寂しUP のコピー

あのスマトラ沖津波は、筆者の私たちファミリーとMrs/SAKURA NARUKAYAさんファミリーと強い絆で結ばれた。以来、二度の来日と筆者は3度に渡りアチェを訪問した。Divaちゃん父であるDr.Ir.M.Dirhamshaさんは、
地元の国立大学SYIAH KUARA UNIVERSITYの傘下のTSUNAMI AND DISASTER MITIGATION RESEARCH CENTER
の所長として、また津波研究者として忙しい日々を送っている。


アチェ生まれの早稲田大学女子大生
一昨日の夕方、五日市街道(新高円寺)から不気味な夕景色を見た。手前が真っ黒な雲と五日市方面は晴れている。
手前は渋滞する車・・・・その奥に雪をかぶる富士山が見える。このところ余震が続くためか何事も「不気味」
という言葉が代名詞になる。

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私の友人が主宰する「インドネシア文化宮」大川誠一氏の(インドネシアのTV局メトロの東京支局)ブログに
感動的なニュースが載っていた。以下はインドネシア文化宮のブログ「私は日本で死にたくない」から
”早稲田大学で学ぶ、アチェ生まれのミキアル・マウリタさん。彼女はインドネシア文化宮が実施したアチェ語
講座やアチェ舞踊口座で講師を務めた。スマトラ沖地震と津波で親兄弟姉妹9人の命を奪われた。
そして、先週の金曜日(3月11日)東京で体験した東日本大震災。2011年3月14日、彼女はアチェの地元紙
「The Atjeh Post」に「私は日本で死にたくない」と題する一文を寄せた。

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本文はインドネシア語なので残念ながらなぜ「日本で死にたくない」かの意味を想像してもらいたい。
彼女の家族12名のうち、両親、兄弟、姉妹の9人の命を一瞬にして失う。当時、実家を離れ、イスラム寄宿
学校の生徒だったため災難を免れたミキアルさんは、同じく、別の場所にいて助かった姉と兄が一人ずついる。
2009年から「あしなが育英会」の援助を受けて早稲田大学国際教養学部で学んでいる。”

日の丸の手前で祈る人のシルエット。Pray for Japanのデザインがすばらしい。今の日本を良く考えたデザインである。
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スマトラ地震&大津波との違いは・・・
東日本大震災が起きて5日目。地震は相変わらず余震なのか分からないが、昨晩も静岡で震度6と推定される
激しい揺れがあった。
今朝は、通勤のバスも電車も何とか正常になりつつ有ると感じた。しかし、写真のように営業を休んだり、
時間を短縮したりして節電に協力している。
がらんとした高円寺商店街
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電気屋さんには電池売り切れが~
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2004年のスマトラ沖地震との大きな違いは原子力発電所の事故がなかった事だ。インドネシアに原発が
なかったからであるが、「便利」をお金で買って来た我々日本のある種責任かもしれない。


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