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吉丸 昌昭

Author:吉丸 昌昭
ドキュメンタリーの重鎮だった牛山純一氏の率いる日本映像記録センターに所属し、「すばらしい世界旅行」や「知られざる世界」などドキュメンタリー番組のカメラマンとして世界各国を取材。現在は、映像製作会社の代表プロデユーサーである。

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ドキュメンタリー映画「二つの故国をつなぐ歌」              その後の反響は
「二つの故国をつなぐ歌~Diva早春賦をうたう~」 このブログでは製作時のこぼれ話や上映後の反響などをご紹介していきます 。
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「早春賦」の原点は熊本第五高等学校か
臼杵市から熊本へ、私たちは吉丸一昌の青春時代の足跡を訪ねる旅の続きを書いてみる。
あいにくの雨模様に少々うんざりしながら竹田市から熊本へ向かった。途中、阿蘇の草千里を通過した。普通の路線からの寄り道であるが、滅多に来る機会がないからという息子夫婦のリクエストだ。霧が濃く立ちこめていてほとんど何も見えない。息子夫婦たちと熊本空港で別れて市内に入る。

翌日は、また雨である。2泊三日のスケジュールであれば雨でも強行軍。先ずは、熊本城を観る。前日のホテルから熊本城の天守閣がライトアップされて雨の中に浮かんでいた。
市内には珍しい路面電車が走っていた。
DSC_0127.jpg
 熊本城と言えば加藤清正といわれるくらい有名なお城である。ネットで調べると意外な事が分かるものだ。
「隈本」を「熊本」に改めた事は知らなかった。次の変遷をウイギペアから引用する。
『加藤清正は、1591年(天正19年)から千葉城・隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に城郭を築きはじめる。1600年(慶長5年)頃には天守が完成、関ヶ原の戦いの行賞で清正は肥後一国52万石の領主となる。1606年(慶長11年)には城の完成を祝い、翌年「隈本」を「熊本」と改めた。これが現在の熊本城である。1610年(慶長15年)から、通路によって南北に分断されていた本丸に通路をまたぐ形で本丸御殿の建築が行われた。』 西南の役には天守閣等が焼失し、現在のようになったのは昭和初期から順々に復元されていった。
吉丸一昌が第五高等学校に入学した当時は多分天守閣も焼失したままだったろう。私たちは、昼食を市内のラーメン店に入る。東京では熊本ラーメンという名前は余り見かけない。ラーメンブームは以外や東京だけなのかも。
DSCF1304.jpg

午後も相変わらずの雨模様、しかも寒い。第五高等学校には何が何でも観なくては熊本に来た意味がない。100年以上も前、吉丸一昌がこの第五高等学校にどんな志で入学したのだろうか。そして、どんな青春時代を過ごしたのだろうか。
レンガ造りの校舎が記念館として残っている。
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校舎には黒光りする廊下、教室は当時を再現し、白墨で書かれた字が黒板に遺されていた。
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窓越しに樫の大木がどっしりと根をおろしていた。この窓から吉丸一昌も樫の木を観ながら青春時代を過ごしたのかと想うと無性に私は目頭が熱くなった。
DSC_0139.jpg
幾多の著名人を拝した名門の旧制第五高等学校。あの文豪・夏目漱石から英語の教師として教えを受け、生涯恩師として慕った湯原元一教授。後に湯原は東京音楽学校の校長として赴任。湯原は赴任後、すぐに吉丸一昌を教授として迎えてくれた。第五高等学校での出会いが後の進路を決定付けることになるのである。
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