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吉丸 昌昭

Author:吉丸 昌昭
ドキュメンタリーの重鎮だった牛山純一氏の率いる日本映像記録センターに所属し、「すばらしい世界旅行」や「知られざる世界」などドキュメンタリー番組のカメラマンとして世界各国を取材。現在は、映像製作会社の代表プロデユーサーである。

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ドキュメンタリー映画「二つの故国をつなぐ歌」              その後の反響は
「二つの故国をつなぐ歌~Diva早春賦をうたう~」 このブログでは製作時のこぼれ話や上映後の反響などをご紹介していきます 。
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花の季節がやって来た
3月11日を境に、世の中がすっかり変わってしまった。原発の事故で節電と停電の影響は人の心までが暗くなる。
被災地のために「できる事は何か」というのが合い言葉になってしまった。
靖国神社
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サクラの標本木が5-6輪咲き始めた。
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そんな中、花の季節がやって来た。28日東京の靖国神社の標本木が5~6輪以上咲き始めた。
この標本の木が東京の本格的な「花の春」を告げる。昨年より、6日遅い開花宣言だ。
いち早く、筆者の家の周りの桃、モクレンが満開になった。

満開の桃の花、モクレンの純白の花が咲いた。
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しかし、自粛ムードには何かと筆者の会社にも深い陰を残し始めた。「右へならへの自粛?」テレビのどこの
チャンネルからも「ACジャパン!」のCMが流れてくる。いい加減にしろよと言いたくなる。

ご主人を待つ、可愛いワンチャンの姿に微笑みを!!
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巨大地震 千葉浦安の現状
千葉の浦安(デズニーランドのある町)は首都・東京に隣接する町は舞浜や新浦安など市内の3/4が埋め立て
地が、液状化現象に見舞われた。今日、3月26日、この大震災でどのようになっているか取材した。TVニュー
スや新聞には余り注目されていない地域だ。
道路が液状化の影響で路面のタイルが浮き上がったり、傾いた住宅、電話ボックスなどが見舞われていた。

東京湾岸で液状化が起きた地域
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液状化の影響で舗装が浮き上がってしまった。
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公園が砂で覆われた。
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傾いた電話ボックス
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傾いた電話ボックスの中に「災害用伝言ダイヤル171」のページが開かれたままだった。
171は地震、噴火などの災害の発生により、被災地への通信が増加し、つながりにくい状況になった場合に
提供が開始される声の伝言板。
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JR新浦安の駅エレベーターは無惨に液状化の影響で地盤沈下していた。
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会場の向こうに蜃気楼のように見える新浦安市街
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見かけはりっぱであるが、基礎がしっかりしていないために長く維持できない物事のたとえ。
これがことわざ「砂上の楼閣」か・・・・
戸籍が消滅する
 東日本大震災の津波被 害で宮城県南三陸町が管理していた戸籍データが消失したことについ て、
「仙台法務局気仙沼支局に更新前の資料やその後の届け出書が残っ ており、再生は可能」と述べ、
関連資料を基に復元できるとの見通しを 示した。
 かつて66年前、日本は太平洋戦争で国土を爆弾で焦土化され、何百万の人びとが亡くなった。
我々世代が体験する初めての「国難」であった。
 下の写真は約70年前、昭和12年1月に撮影された筆者の家族の記念写真である。二人の幼子は
筆者の姉たちである。父に抱かれているのが二番目の姉だ。当時2才半。その後、昭和13年10月に
4才で亡くなった。
 
吉丸ルツ子

1944年11月14日以降に106回の空爆を受けたが、特に1945年3月10日、4月13日、4月15日、5月25日の空襲は大規模であった。特に、3月10日は実に10万人の人たちが亡くなった。
そして、筆者の旧本籍である「本郷区駒込動坂町327」現在の文京区千駄木にあたる。現在の戸籍謄本を見ると私たち兄弟は載っているが、昭和13年に亡くなった次女の姉は戸籍から抹消されていた。言い訳の様に”3月に原本焼失した”という説明文があり、書かれている戸籍は後に親族からの申し出により作り直したものだという。何故か、次女は戸籍から抹消されていた。





アチェからの連帯のメッセージ
2004年12月26日(日)、筆者は忘れられない。東日本大震災を遥かに上回る、17万人という犠牲者が出た
スマトラ沖地震と津波。日本の津波被災者に対する、連帯の意思表示が波紋を広げている。
昨日3月18日(金)、州都バンダアチェ(Banda Aceh)の中心部にあるブラン・パダン(Blang Padang)広場で、
犠牲者を悼む市民の集いが開かれた。「ACEH December 26, 2004 FOR JAPAN March 11, 2011」。
アチェは忘れない。日本からの、あの温かい支援の事を。

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バンダ・アチェの子供が、市内の「世界にありがとう広場」(Blang Padang広場)で、日の丸を手に、日本の
津波被災の早期復興を祈った(2011年3月18日・『Serambi Indonesia』紙から)

筆者のいとこ Mrs/SAKURA NARUKAYAさんの孫、DivaちゃんとDaisyさんはおよそ10mの津波を受けたが、
二人とも運良く助かった。しかし、妹の当時6才の三女は津波にのまれ亡くなった。

写真はDivaちゃん(2007年当時)
Diva寂しUP のコピー

あのスマトラ沖津波は、筆者の私たちファミリーとMrs/SAKURA NARUKAYAさんファミリーと強い絆で結ばれた。以来、二度の来日と筆者は3度に渡りアチェを訪問した。Divaちゃん父であるDr.Ir.M.Dirhamshaさんは、
地元の国立大学SYIAH KUARA UNIVERSITYの傘下のTSUNAMI AND DISASTER MITIGATION RESEARCH CENTER
の所長として、また津波研究者として忙しい日々を送っている。


アチェ生まれの早稲田大学女子大生
一昨日の夕方、五日市街道(新高円寺)から不気味な夕景色を見た。手前が真っ黒な雲と五日市方面は晴れている。
手前は渋滞する車・・・・その奥に雪をかぶる富士山が見える。このところ余震が続くためか何事も「不気味」
という言葉が代名詞になる。

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私の友人が主宰する「インドネシア文化宮」大川誠一氏の(インドネシアのTV局メトロの東京支局)ブログに
感動的なニュースが載っていた。以下はインドネシア文化宮のブログ「私は日本で死にたくない」から
”早稲田大学で学ぶ、アチェ生まれのミキアル・マウリタさん。彼女はインドネシア文化宮が実施したアチェ語
講座やアチェ舞踊口座で講師を務めた。スマトラ沖地震と津波で親兄弟姉妹9人の命を奪われた。
そして、先週の金曜日(3月11日)東京で体験した東日本大震災。2011年3月14日、彼女はアチェの地元紙
「The Atjeh Post」に「私は日本で死にたくない」と題する一文を寄せた。

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本文はインドネシア語なので残念ながらなぜ「日本で死にたくない」かの意味を想像してもらいたい。
彼女の家族12名のうち、両親、兄弟、姉妹の9人の命を一瞬にして失う。当時、実家を離れ、イスラム寄宿
学校の生徒だったため災難を免れたミキアルさんは、同じく、別の場所にいて助かった姉と兄が一人ずついる。
2009年から「あしなが育英会」の援助を受けて早稲田大学国際教養学部で学んでいる。”

日の丸の手前で祈る人のシルエット。Pray for Japanのデザインがすばらしい。今の日本を良く考えたデザインである。
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スマトラ地震&大津波との違いは・・・
東日本大震災が起きて5日目。地震は相変わらず余震なのか分からないが、昨晩も静岡で震度6と推定される
激しい揺れがあった。
今朝は、通勤のバスも電車も何とか正常になりつつ有ると感じた。しかし、写真のように営業を休んだり、
時間を短縮したりして節電に協力している。
がらんとした高円寺商店街
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電気屋さんには電池売り切れが~
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2004年のスマトラ沖地震との大きな違いは原子力発電所の事故がなかった事だ。インドネシアに原発が
なかったからであるが、「便利」をお金で買って来た我々日本のある種責任かもしれない。
67年前、昭和19年の巨大地震
「昭和東南海地震」という戦時中に起きた巨大地震があった事を知っているだろうか。多くの人たちは「え!」と言うだろう。当時の日本の軍部の情報統制により情報が改竄され、また多くの1次的記録も消滅・散逸していることなどから、被害の全体像が把握しにくい地震である。
 
下記は67年前の写真である。(当時の毎日新聞より)
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1944年(昭和19年)12月7日に午後1時36分から、紀伊半島東部の熊野灘、三重県尾鷲市沖約20km(北緯33度8分、東経136度6分)を中心とする震源で発生した巨大地震。「昭和東南海地震」と呼ばれている。
マグニチュードは7.9と推定されている。死者・行方不明者数は1223名を数えたとされる。
 愛知県下には多数の航空機、兵器、電気機器製造工場等の軍需工場が多く、軍部が報道管制を敷いた。「被害僅少」の報道しかなされず、一般市民への救援は皆無だった。
 各地で津波が観測された。熊野灘沿岸では6メートルを記録したと言われている。
計画停電って何?
朝から、電池や食料(パン)を仕入れようと思いコンビニに出かけてみたがガラ空きになった棚ばかりが目立つた。
ガソリンスタンドのガソリンはどこも「売り切れ」ばかりだった。

皮肉にも、「震災時給油スタンド」という表示が空しい。(三鷹市のガソリンスタンド)
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スーパーは閉まっていた。11日の夕方。
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お弁当がどれも300円だった。  東京は直接被害を受けたわけではないのに・・・・・
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そして、私はバスを乗り継いで会社に行く事ができた。通常は1時間弱の通勤時間が今日は2時間半かかった。
昨晩突然発表された「輪番停電」・「計画停電」いずれも、あまり聞いた事がない言葉である。東京電力管内を5カ所のグループに分けて、2~3時間の停電をするという。しかし、・・・・結局、我々の第2グループは停電はなかった。

100年に一度の巨大地震と巨大津波
昨日の東京でもこれまで誰もが経験したことのない大きい長い揺れ。マグニチュード8,8 
東日本地震の昨晩のテレビニュースを見るにつけ濁流にのまれる家屋、激しく噴き上げる紅蓮の炎、
黒煙が立ちこめる、まさに地獄絵図のような光景だ。
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 2004年12月に起きたスマトラ沖地震津波の大災害を日本の国民も,メデイアも忘れていたの
ではないのだろうか。嫌な事は忘れようとする日本国民。あの6年前のスマトラ島バンダアチェ沖
を震源とする地震津波の被災は、多くの日本人は他所の国の出来事という気持ちだった。今回の
「東北地方太平洋沖地震と巨大津波」は、スマトラ沖のそれと匹敵するという。
 
 下記の写真二枚は2005年の3月にスマトラ島バンダアチェでの取材時に撮影した。
津波3ヶ月ご5

津波3ヶ月ご2

私の会社は青梅街道と五日市街道に接する地下鉄丸ノ内線「新高円寺」に近い。幹線道路の脇の道を
黒蟻のように自宅に向かって黙々と歩く人たち。電車、地下鉄全線、JRも全線がストップ。車道は渋滞、
スーパーは閉店そして現代人の必携グッヅ「携帯電話不通」。
写真は青梅街道と五日市街道が交差する歩道を歩く人々。(17時44分)

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此の写真の前、地震直後に我が家が倒壊しているのではと思い車で行った、私の部屋が落下した
ビデオや書籍で散乱していた。幸い大事なパソコンが落下しないでいた。
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