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吉丸 昌昭

Author:吉丸 昌昭
ドキュメンタリーの重鎮だった牛山純一氏の率いる日本映像記録センターに所属し、「すばらしい世界旅行」や「知られざる世界」などドキュメンタリー番組のカメラマンとして世界各国を取材。現在は、映像製作会社の代表プロデユーサーである。

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ドキュメンタリー映画「二つの故国をつなぐ歌」              その後の反響は
「二つの故国をつなぐ歌~Diva早春賦をうたう~」 このブログでは製作時のこぼれ話や上映後の反響などをご紹介していきます 。
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作詞者・吉丸一昌の青春の熊本第五高等学校
吉丸一昌が熊本の第五高等学校に入学した明治27年に高等学校令公布に伴い第五高等学校と改称された。その年に任期を終えた小泉八雲=ラフカデイオ・ハーンが11月に去っている。僅かな期間であるが接触があったかも知れない。
そして、吉丸が2年生の時、明治29年に夏目漱石(金之助)講師として赴任した。後に文豪と言われた二人の教授から教えを受けることが出来た一昌の”青春の熊本の第五高等学校” 何ともすばらしき青春時代だったのだろうか。
下の写真は小泉八雲。
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明治24年、当時、文部省参事官の嘉納治五郎が校校長に任命され、彼の要請で松江中学に居た小泉八雲が赴任してきた。日本国籍を得たラフカデイオ・ハーンは日本名を小泉八雲と改めており、熊本で長男も生まれている。
明治27年、大分の田舎町・臼杵から出てきた一昌は外国人教師に対してどのような感慨を得たのだろうか。
今日の産経新聞のコラムに外交評論家の岡本行夫氏が書いた記事を見た。「明治の日本の勢いは、多くの外国人の支援で可能になった。欧米から日本にやってきた約千人の顧問、技師、教師たちが近代国家建設に携わった。」確かにそうであったのかも知れない。後に、吉丸一昌は東京音楽学校においても多くの欧米から来た外国人教師と知り合うことになる。そして、彼らから多くの外国曲の訳詞を依頼されたのかも知れない。例えば吉丸の代表曲である「故郷を離れる歌」(ドイツ民謡)や「浦のあけくれ」(マジンギー作曲)また、「四つ葉のクローバー」は東京音楽学校の教授だったルドルフ・ロイテルが作曲したものに日本語訳した。今回、この「四つ葉のクローバー」を中田章のお孫さんである中田順子さんに歌ってもらう。ゆっくりとしたテンポの作品だ。
こうして、単に歌を聴くだけでなく当時の歌の背景を考えてみる事も別の意味で興味深い。
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「早春賦」の原点は熊本第五高等学校か
臼杵市から熊本へ、私たちは吉丸一昌の青春時代の足跡を訪ねる旅の続きを書いてみる。
あいにくの雨模様に少々うんざりしながら竹田市から熊本へ向かった。途中、阿蘇の草千里を通過した。普通の路線からの寄り道であるが、滅多に来る機会がないからという息子夫婦のリクエストだ。霧が濃く立ちこめていてほとんど何も見えない。息子夫婦たちと熊本空港で別れて市内に入る。

翌日は、また雨である。2泊三日のスケジュールであれば雨でも強行軍。先ずは、熊本城を観る。前日のホテルから熊本城の天守閣がライトアップされて雨の中に浮かんでいた。
市内には珍しい路面電車が走っていた。
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 熊本城と言えば加藤清正といわれるくらい有名なお城である。ネットで調べると意外な事が分かるものだ。
「隈本」を「熊本」に改めた事は知らなかった。次の変遷をウイギペアから引用する。
『加藤清正は、1591年(天正19年)から千葉城・隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に城郭を築きはじめる。1600年(慶長5年)頃には天守が完成、関ヶ原の戦いの行賞で清正は肥後一国52万石の領主となる。1606年(慶長11年)には城の完成を祝い、翌年「隈本」を「熊本」と改めた。これが現在の熊本城である。1610年(慶長15年)から、通路によって南北に分断されていた本丸に通路をまたぐ形で本丸御殿の建築が行われた。』 西南の役には天守閣等が焼失し、現在のようになったのは昭和初期から順々に復元されていった。
吉丸一昌が第五高等学校に入学した当時は多分天守閣も焼失したままだったろう。私たちは、昼食を市内のラーメン店に入る。東京では熊本ラーメンという名前は余り見かけない。ラーメンブームは以外や東京だけなのかも。
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午後も相変わらずの雨模様、しかも寒い。第五高等学校には何が何でも観なくては熊本に来た意味がない。100年以上も前、吉丸一昌がこの第五高等学校にどんな志で入学したのだろうか。そして、どんな青春時代を過ごしたのだろうか。
レンガ造りの校舎が記念館として残っている。
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校舎には黒光りする廊下、教室は当時を再現し、白墨で書かれた字が黒板に遺されていた。
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窓越しに樫の大木がどっしりと根をおろしていた。この窓から吉丸一昌も樫の木を観ながら青春時代を過ごしたのかと想うと無性に私は目頭が熱くなった。
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幾多の著名人を拝した名門の旧制第五高等学校。あの文豪・夏目漱石から英語の教師として教えを受け、生涯恩師として慕った湯原元一教授。後に湯原は東京音楽学校の校長として赴任。湯原は赴任後、すぐに吉丸一昌を教授として迎えてくれた。第五高等学校での出会いが後の進路を決定付けることになるのである。

早春賦の歌碑が出来る
先週、春のお彼岸に入る前の日 3月17日に待望の早春賦歌碑が龍光寺境内に建てられた。この所、お天気もなかなか安定しない日が続いていたので、予定の17日が果たしてお天気がどうか気になっていた。幸いに午前中のうちに建立する事ができて内心ほっとした。
クレーンでそろりと丁寧な作業で台座に歌碑が置かれた。
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歌碑の表面に書家・矢島峰月氏が書かれた「早春賦」の詩は薄いゴムによって覆われている。ゴムをゆっくりとはがすと光沢に磨かれた石の面に”早春賦”の詩文が現れる。感激の時である。
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歌碑の全容が現れた。4月4日には歌碑の左右に左に基金へ寄付された方々の名前が、
右側には作詞者と作曲者が書かれ、関わった方々の名前等が彫られる。

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高校生が伝える、戦争体験の労苦
平成21年度の「平和祈年フォーラム」が新宿の安田生命ホールで開催された。今日開催した「平和祈年フォーラム」の目玉には、全国の高校に公募をして「高校生が伝える,戦争体験の労苦」というテーマでビデオ製作をしてもらい,今日、そのコンクールの成果が発表された。この審査を我が社の長尾栄治監督が担当した。
審査結果を発表する長尾栄治監督
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ビデオコンクールには全国30校の学校が応募してきた。正直まず驚いたのが企画力とその問題を徹底的に追及する意欲である。我々プロ作家たちは何をやってるか!と一撃を食らった感じがした。最優秀高校は岡山の山陽女子高校、優秀高校は鹿児島県の鹿児島鶴翔高校と帯広緑陽高校の三校、三作品が選ばれた。しかも二度ビックリしたのが、いずれも女の子たちが先頭を切っていたことだ。古い言い方をすれば、戦時中は「女、子供は銃後の守りをせよ」と。
しかし、今流行る言葉に、「歴女」(意味が違うが)という言葉ががうなずけられる。
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最後は長尾監督が作品の講評をした。司会は生島ひろし。
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早春賦歌碑について
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私たちが「菩提寺にも早春賦の歌碑を建たい」という想いのもと,沢山の方々が歌碑建立の募金に応じて下さった。本当に,心から嬉しく思います。 すごい!この歌に感じる方の多さに驚くと共に、祖父の偉大さに感服する。
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この「早春賦」は祖父・吉丸一昌の代表的な唱歌集「新作唱歌」全十集は明治44年に第一集が発行されてからほぼ4年の月日を経て、大正4年に全十集が完成した。今,歌われている曲は中田章が作曲し、一部を章の次男・中田喜直氏が編曲したものである。この早春賦は第三集の中に収められてれている。今,見てもこの表紙デザインはなかなか優れたデザイナーがデザインしている。色合いは今で云う「レトロ調」当然であるが。楽譜の写真は前奏部分である。残念ながら私は楽譜が読めないので・・・
南米チリの巨大地震と大津波
チリの巨大地震と大津波の写真を見るとあの5年前の惨劇を思い出す。5年前の今頃はアチェに行く準備に追われていた。まだ、アチェでは復興が始められる状況になかった。掲載されている写真はパワーステーションという発電設備がある大型の船が津波に押し寄せられて陸地に上がった。この船の下には家があったり,人が生き埋めにあったと聞く。
陸に上がった船JPG

日本では27日一日中、津波警報がテレビから流されていた。昨日、気象庁の津波警報は「大げさすぎるのでは」と中井洽防災担当相は2日の閣議後会見で苦言?を言ってたようだ。しかし、気象庁も「予測が過大だった」と謝罪した。しかし、どうなんだろうか。実際には三陸地方では被害が甚大だった。確かに「判断は難しいが、もう少し警報のレベルダウンを素早くできなかったかという問題があるかもしれない。
被害がもっと酷かったら気象庁の警報が悪いと言われるのがオチだ。私は「大げさぐらいがちょうどいい」と思う。
チリ大地震と大津波
先日のブログで義援金のあり方に付いて曾野綾子氏の新聞のコラムの事を書いたばかりでの27日に起きたチリ大地震と大津波のニュースが飛び込んできた。このパターンは5年前のアチェ地震と大津波と良く似ているような気がする。
アチェの時は津波が日本には波及しなかったが、50年前のチリ大地震&大津波の時の三陸沖津波の記憶は微かにある。太平洋をジェット機のスピード800キロで津波が押し寄せて来るのだとか。50年前は日本も防災体制が幼稚だったこともあり被害が大きかった。
今回も三陸海岸ではかなりの被害に見舞われたと報道されている。
アチェの津波については被害にあったあのDivaちゃんが[あの木の高さ(10m)の水の固まりが来た」音はジェット機の爆音のようだったと語っていた。


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