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吉丸 昌昭

Author:吉丸 昌昭
ドキュメンタリーの重鎮だった牛山純一氏の率いる日本映像記録センターに所属し、「すばらしい世界旅行」や「知られざる世界」などドキュメンタリー番組のカメラマンとして世界各国を取材。現在は、映像製作会社の代表プロデユーサーである。

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ドキュメンタリー映画「二つの故国をつなぐ歌」              その後の反響は
「二つの故国をつなぐ歌~Diva早春賦をうたう~」 このブログでは製作時のこぼれ話や上映後の反響などをご紹介していきます 。
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「語らずに死ねるか!」の上映案内チラシ
2月もあっという間に終わり。明日は弥生三月「梅は咲いたが桜はまだかいな!」弥生の月は冬から一気に春になる一年で一番季節の移り変りの激しい時期である。
私たちの製作している映画も三月末には完成し、助成金をいただく文化庁への試写がひかえている。
映像の編集が先週から始まっている。先週は共同製作の”戦場体験放映の会”に大まかにつないだものを観てもらった。長尾監督は編集室で取材したテープを切ったり張ったりの作業が続けられている。
上映案内の案内チラシが先週、印刷屋さんへ入稿した。10日ごろにはインタビューした出演者や関係者に発送する。ブログでいち早く案内のチラシを公開します。
上映案内のお知らせなので白黒で印刷をしている。

katarazuniPOP_02 のコピー


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戦争体験放映保存の会との共同製作
私たちのドキュメンタリー映画は「戦場体験放映保存の会」と一緒に共同製作をしている。安曇野市の出身である特攻隊員だった上原良司さんの取材では「戦場体験放映保存の会」のボランテイア・スタッフの提橋律子さんと長野県の白馬村で活動をする篠崎久美子さんが同行してくれた。我々も今回の作品では,戦争を知らない二人の女性取材者も逆取材した。

逆取材JPG

篠崎さんは昨年、保存の会が主催した日比谷公会堂でのイベントをNHKニュースで見て、すぐさま東京の保存の会,事務局に出向いて入会したという行動力抜群の女性スタッフの一人である。
今回の上原良司さんの妹さん、上原清子さんを取材する事を聞き,我々に同行してくれた。
白馬村に在住と聞き、もしや私と同じ大町高校の同窓かな? と思っていたがやはり、「町高です。吉丸さんでしょう?」という。何か目的が同じ同窓生に親近感を感じた。
篠崎さん

上原清子さんを取材する「戦場体験放映保存の会」の二人の女性スタッフ。
取材する女性JPG


映画のタイトル文字
このところ、故郷の安曇野出身の特攻隊出撃で戦死した上原良司さんについてブログに書いている。
何か,書きたい事が中途半端に終わっているままで今朝もそうだ。
今回の映画のタイトル「語らずに死ねるか!」は観る人によって強烈なイメージを感じるのではないだろうか。私自身も結構こだわりをもっている。私の最初のイメージは乱暴で下手な字を書いてもらう人を考えていたところ、私の菩提寺「龍光寺」でプロの書道家を目指している若手の女性の書道家にお会いし、彼女が書いたものを見せていただく機会があった。京都・東福寺の管長さんがその書道家の字を見て「この字は誰が書いたんか!良いな!」と誉めたそうだ。
私は失礼と思ったが試しにタイトルの「語らずに死ねるか!」を書いていただけませんかと恐るおそる尋ねたところ、このように書いていただけた。良いと思いませんか?
daime[1]

この字を見て嬉しくなった。「語」と「死」という描き方がすばらしい。今回のタイトルは一枚の絵というか、重要な1カットの映像と同じ位の意味をもっていると考えている。
上原良司の碑
上原良司は自分が育んでくれた故郷に別れを告げた。自宅から数百メターの乳房川(現在は穂高川)を渡る乳房川に乳房橋が当時のままに残っている。

乳房橋

橋に使われていた鉄の欄干も終戦間際に軍への供出で無くなったままの姿だ。この橋のたもとで良司は送ってくれた人たちへ「さよなら、さよなら、さよなら」と故郷の山々に響くように別れの言葉を言った。私たちが見た夕陽の中の有明山が60数年前と変わらないシルエットが美しかった。
夕景のアルプス

一方,安曇野市に隣接する池田町にある町立 東山包美術館の庭園に「良司メッセージの碑」が建てられている。ここから見る北アルプスのパノラマは実に素晴らしい。180度屏風のように北アルプスの峯々が白銀に輝いている。このメッセージ碑は上原良司の生誕地から「上原良司のメッセージを発信する」という意味から全国の方々からの浄財によって建立されたと案内をしていただいた東山包美術館館長の師岡昭二氏(82才)が説明をしてくれた。師岡昭二氏も昭和19年に志願兵として滋賀県の八日市の部隊で終戦を迎えたとの事。
上原碑全景

諸岡さん2

良司の「所感」続き
この「所感」は良司の絶筆といわれ7枚の原稿用紙に書かれている。読んでみてよくこの「所感」が検閲に引っかからないで信州・安曇野まで持って来られたと思う。”日本映画社”と書かれた原稿用紙だ。
仏壇に手を合わせる上原清子さん。
仏壇に祈るJPG
仏壇に並ぶ兄弟の位牌。
並ぶ位牌


続きを載せてみる。
・・・・真理の普遍さは今、現実によって証明されつつ、過去において歴史が示したごとく、未来永久に自由の偉大さを証明して行くと思われます。自己の信念正しかった事、この事あるいは祖国にとって恐るべき事であるかもしれませんが、吾人にとっては嬉しい限りです。現在のいかなる闘争も、その根底に為すものは必ず思想なりと思う次第です。既に思想によって、その闘争の結果を明白に見る事が出来ると信じます。愛する祖国日本をして、かつての大英帝国のごとき大帝国たらしめんとする私の野望は遂に空しくなりました。真に日本を愛する者をして、立たしめたなら日本を現在のごとき状態にあるいは、追い込まれなかったと思います。世界どこもにおいても肩で風を切って歩く日本人、これが私の夢見た理想でした。
空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人がいったことは確かです。操縦桿を採る器械、人格もなく感情もなkもちろん理性もなく、ただ敵の航空母艦に向かって吸い付く磁石の中の鉄の
一分子に過ぎぬのです。理性をもって考えタなら」実に考えられぬ事で強いて考えうれば彼らがいうごとく自殺者とでもいいましょうか。精神の国、日本においての見られる事だと思います。一器械である吾人は何も云う権利はありませんが、ただ、願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を、国民の方々にお願いするのみです。』

厳しい軍部の目をくぐり抜けた所感(遺書)
上原良司の所感(遺書)は出撃前に書いたもので、陸軍知覧基地報道班の高木俊明によって依頼され、書き残された良司の絶筆である。高木氏に預けられた「所感」は戦死直後の8月に軍部の厳しい検閲をかいくぐり直接、信州の上原家まで高木氏自ら届けたものである。残念ながら「慶応大学120年展」に展示されて実物を見る事が出来なかった。

所感

「栄光ある祖国に本の代表的攻撃隊ともいうべき陸軍特攻隊に選ばれ、身の光栄これに過ぐるものなきと痛感致しております。思えば長き学生時代を通じて得た、信念とも申すべき理論万能の道理から考えた場合、これはあるいは、自由主義者といわれるかもしれませんが、自由の勝利は明白な事だと思います。人間の本性たる自由を滅ぼす事は絶対に出来なく例えそれが抑えられているごとく見えても,底において常に闘いつつ最後には必ず勝つという事は、彼のイタリヤのクローチエも言っているごとく真理であると思います。
権力主義、全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも、必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。我々はその真理を、今次世界大戦の枢機国家において見る事が出来ると思います。ファシズムのイタリヤは如何、ナチズムのドイツまた、既に敗れ、今や権力主義国家は、土台石の壊れた建築物のごとく、次から次へと滅亡しつつあります。・・・以下は次回。
「飛燕」と一緒に(調布飛行場にて)
隼と良司
出撃前に特攻隊員は「男なら」を皆で歌った。
出陣前の歌う隊員
戦死した三兄弟の石膏像は戦後、彼らの父が地元の彫刻家に作ってもらった。
上原3兄弟



銃後の守り   その2
上原清子さん(82才)は、神風特攻隊で亡くなった兄・良司や二人の兄に代わって語り部として後世に語り継いできた。
父・寅太郎は陸軍軍医(大尉)として、母のよし江は国防婦人会に参加する良妻賢母の手本のような主婦だった。上原清子さんには三人の兄が、清子の下に妹がいた。長兄の吉春と次兄は慶応大学の医学部を出て、いずれも軍医で三男の良司は慶応大学の経済学部に進んだ。そんな、何に不自由なく親子7人が信州の安曇野に暮らしていた。
その後、軍医とし従軍していた長兄がビルマで戦病死。跡取りと考えていた長兄の代わりに清子が女子医専に進み、跡取りになるように父は考えた。さらに、潜水艦の軍医だった次兄も米軍の攻撃より、艦もろとも戦死。三男の良司も21才の時、学徒出陣で松本連隊から熊谷航空学校に入校。そして、20年3月目達原で特攻隊に選ばれ、知覧から帰らぬ人になった。良司は知覧で親しくしていた報道班員の高木に後に有名な「所感(遺書)」を預けた。こうして、「銃後の守り」を固めていた上原家の女性たちも戦争によって運命の歯車が狂っていった。
兄の良司について語る上原清子さん。
DSC_0013.jpg

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銃後の守り
私たちの製作中のドキュメンタリー映画「語らずに死ねるか!」は戦場を体験した元兵士たちの声を取材してきた。男たちは戦場で辛苦を味わったが、その後ろには男たちとは違う「銃後の守り」をし、辛苦を味わった女性たちがいたことも忘れてはならない。
今日、2月16日の私のブログを見ていただいた方々が100件を越え、取材を知っている方々からの注目されていることを感じる。
14日、15日の両日、私の故郷である安曇野に神風特攻隊で亡くなった上原良司さんの妹さん”上原清子”さんを訪ねた。上原良司さんの事を知ったのは10年近く前だったろうか、鹿児島県の知覧町(特攻隊の出撃地で知られている)の特攻隊記念館に取材で訪れ、長野県安曇野出身の上原良司さんの遺書を案内の方が読み上げてくれたことだった。
佐賀県の目達原基地での上原良司さん
DSC_0057.jpg
続きは明日へ。
戦場体験者と戦争を知らない若者たちとの懇談会
2月8日(日曜日) 
北風が新宿副都心のビル街に吹き付ける寒い日である。「語らずに死ねるか!」の取材が未だ終わっていない。終わっていないどころか今佳境にはっているのが現状である。我々と共同製作を組む「戦場体験放映保存の会」が主催する新春交歓会を取材する。新宿の都庁の中にあるレストランに80人以上の戦場体験者が集まり、戦場体験者放映保存の会のボランテイアの人たちとの交歓会が開かれた。
乾杯

戦争を知らない人たちが聞き役になり、戦場体験が語る60数年前の戦場の話に耳を傾けていた。
若い人と語る1

中には子供連れの主婦も参加していた。お嬢ちゃんは未だ3才だそうだ。
語る2

ほとんどが80才を越す高齢者が多いので、交歓には大きな声が飛び交う。
語る:提橋

語る3

2番の番号が振ってある席は、フイリッピン戦線で生き残った体験者の人たちである。
語る4:老人同士

語る5JPG

尽きない話が終わり,恒例の記念写真。皆さん、 1年でも2年でも長生きしてください。
記念写真

「語らずに死ねるか!」という熱い思いの元兵士たちは未だまだたくさんいる。私たちの取材するカメラに向かって語る ~無名兵士たちの声~ は尽きない。語れば10分でも20分でも思いのたけを語ってくれる。私たちは大きな歴史のうねりの中で生きてきた、この人たちの声を真に受け止めなくてはならないと思った。




4~5日書き込みを留守にしました
2月1日(日曜日)に市川市で開催している日本映像記録センターの「すばらしい世界旅行」の上映会に出かけた。昔の映像記録の仲間からの誘いがあり、仲間に会うのが楽しみな事と旧作が観られるということでわくわくして出かけた。
我々の師匠&ボスだった牛山プロでユーサーが亡くなってから、直弟子の杉山忠夫氏が遺作を保存し、今回のように上映会を続けてきたそうだ。毎月、月初めの第一日曜日に開催してきて66回目、5年と2ヶ月。ものすごいことである。さそわれるまで、このような上映会があることが全く知らなかった、最近は市川市真間にある「相田みつをギャラリー サロン・ド・グランパ」でコーヒーとサロン・ド・グランパが作ったパンを食べながらのすばらしい鑑賞会だった。
今日は、ポルトガルのアゾレス諸島での「闘牛と捕鯨の島」という1981年に製作した作品。常連の観客が7-8人が鑑賞していた。
仲間のキャメラマン・稲葉寿一氏とは久しぶりの再会、杉山忠夫氏とも7-8年ぶりの再会だった。
上映会の後、市川に住む杉山氏のお宅で大ごちそうになり懐かしい話に花を咲かせた。杉山氏とは(担当デイレクター)ナイル川の源流から河口迄の作品で帝政崩壊後のエチオピアに取材した。いずれ、このブログでも公開したい。
また、先日来、パプア・ニューギニアの取材記録をブログに公開してきたが、私の代表作を近々に都内で開催したいと考えている。


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