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吉丸 昌昭

Author:吉丸 昌昭
ドキュメンタリーの重鎮だった牛山純一氏の率いる日本映像記録センターに所属し、「すばらしい世界旅行」や「知られざる世界」などドキュメンタリー番組のカメラマンとして世界各国を取材。現在は、映像製作会社の代表プロデユーサーである。

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ドキュメンタリー映画「二つの故国をつなぐ歌」              その後の反響は
「二つの故国をつなぐ歌~Diva早春賦をうたう~」 このブログでは製作時のこぼれ話や上映後の反響などをご紹介していきます 。
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インドネシア・アチェを襲った大津波が襲来して4年目
4年前の今日、12月26日はインド洋巨大津波が発生し、『未曾有』の大被害が起きたことを皆さんは覚えているだろうか。今はそれどころではない、100年に一度の『未曾有』大不況によるリストラのニュースばかりがテレビニュース、新聞の一面をにぎわしている。
4年前のニュースはインド洋巨大津波”が大きく扱われていた。震源地に近いインドネシア・スマトラ島北端のアチェは一躍知名度がアップされた。それまで殆どの人々は「アチェ」の地名を知らなかった。皮肉にも、17万人もの人々が亡くなった事がさらにアチェの知名度がアップされる要因になった。
 しかし、アチェの地名を知る私にとって、あの4年前忘れもしない出来事だった。アチェが震源地という一報を耳にして「あのサクラさんファミリーはどうしたのだろうか、無事だろうか」テレビニュースからアチェ情報が流れてこない。新しい年に変わったお正月にやっとテレビニュースがあの有名なシーン、アチェの目抜き通りを濁流が襲い、車から脱出する市民、泣き叫ぶ声、・・私はサクラさんが画面に映っていないか・・・
SERANBI.jpg
 お正月が明けて私は先ず豊橋技術大学の星教授にメールを入れた。サクラさんの次女の娘婿であるDirhamshが以前留学していた。その時の担任教授が星先生だった。また、その頃、偶然に私の会社が「豊橋技術大学学校案内ビデオ」を製作していた関係で親しく接していた。インドネシアからの留学生が多くいた。大学もアチェの大学との交流もあったから錯綜する情報には、Dirhamsh一家は全滅だとのこと。今考えると藁をも掴む心境だったのだろうか。
それから、どのくらいたっただろうか。私の会社に英語の電話がかかった。あいにく私が留守だった。翌日、再び電話が入り、それがDirhamshだった。私も英語は得意でない。
「サクラさんは無事である、私の娘が1人亡くなった」という。彼の携帯電話は通じるようだ。
3ヶ月後、私は息子を通訳にして始めてアチェに訪れた。その時の写真を掲載。
サクラさんのホテルの惨状
scan02.jpg
私は戦後の東京の焼け野原を思い出した。一軒の豪邸がポツンと見える。
津波記念館になる豪邸
アチェアの全てが消えてしまった.でも、私はアチェを愛する!豪邸に書かれたスローガン
津波にあった豪邸
海岸の一本の大木は津波をもろとせずに、逃げ惑う多くの人々を救った。息子の昌剛と・・・
アチェの象徴の木


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海外戦没者の遺骨収集
先週の金曜日、インドネシア文化宮の大川氏を交えた「忘年会」をやった。大川氏は「インドネシアの西イリアンや東ニューギニアでは、今でも第二次大戦で亡くなった兵士7万人もの遺骨が、戦後63年も経つ現在、未帰還のままでいる・・・・」と熱く語っていた。偶然にも産經新聞の今日の「明解要解」(12月24日)というコーナーで ”停滞する海外戦没者の遺骨収集”が特集されていた。
写真は地域別戦没者の一覧地図(12月24日付け 産經新聞「明解要解」より)
plc0812240812004-n1.jpg
その記事は「政府が行なう海外戦没者(240万人)の遺骨収集は戦後60余年が過ぎ、関係者の高齢化、情報の減少で先細りになるばかり。現状打破のため民間委託など新たな枠組みを求める動きも出てきた。約115万人の遺骨は今も未帰還のまま。帰郷を願う英霊の声は現代の日本人に届くだろうか。」 115万人もの兵士たちの数の多さにあらためて驚いた。誰しもがどうしてなのかと聞く。
戦後、昭和27年からスタートした遺骨収集事業は厚生労働省外事室と戦友、遺族らが中心になって派遣団が相手国の承認を得てから遺骨収集を行なうという方策が行なわれてきたそうだ。
大川氏にもある遺族から「私の父が亡くなったという場所を一度で良いから訪れたい」という問い合わせがあったとのこと。私もかつて取材で訪れたパプアニューギニアのウェワクの郊外のジャングルに足を踏み入れた時に旧日本兵の水筒やヘルメットが手つかずで転がっていた事を記憶している。
国のために命をかけた旧日本兵士たちの慰霊を何時慰められる日がくるのだろうか。亡くなった兵士たちの遺族の子たちも老齢になり、その孫たちは祖父がどのようにして戦い、亡くなったのか・・・時間と共にその末裔たちからも忘れられて行く。残された時間は少ない。

映画製作のスタッフ
今回の映画制作は既に三分のにが撮影を終えている。12月も残り少なくなり、そろそろ1月には撮影を終えなくては後がキツくなって来る。今までは撮影風景的を主に書いてきた。。
ここで制作スタッフを改めて紹介してみたい。プロデユーサーは私が担当している。まず、監督の長尾栄治は福島市の出身で40才。我が社生え抜きのホープとして、歴史ものを得意として、中でも太平洋戦史については誰にも負けないという。前作の「二つの故国をつなぐ歌~Diva早春賦をうたう」を監督したことはブログで紹介した。彼の学歴も変わっていて福島の高校を卒業後、慶応大学に進み、2年後に中退し、映画監督への想いが立ち難く、日本大学芸術学部映画学科に再入学。卒業後、我が社に入社した。私の後輩に当たる。
船上で猪熊さんにインタビューする長尾監督。(真ん中)
取材班2
過去、ユーキャンが製作する「太平洋戦争」、「昭和と戦争」などを手がけてきた得難い実績がある。
一方、今回のカメラマンは吉田武42才。兵庫県高砂市出身。大阪芸術大学映画撮影コースという生粋の関西人。現在フリーランスカメラマンとして活躍している。我が社ではプロモーション映像製作のカメラマンとしてプロデユーサーから熱い信頼を得ている。
撮影をする吉田武カメラマン。
取材班1
彼の鉄度好きは半端ではない。自主制作でローカル線「三木鉄道の魅力を凝縮し、秘蔵の映像」を製作し、神戸新聞に紹介している/”三木鉄道の廃止を前に、高砂市出身のフリーカメラマン吉田武さん(42)=東京都練馬区=が、沿線を撮影した自作DVD「播磨の小路線 三木鉄道-印象派鉄道風景」を制作した。鉄道と沿線住民の触れ合い、四季の風景などをとらえており、「自分が好きだと思った瞬間を集めた。ゆったり眺めてほしい」と話している。”。
防衛省見学ツアー
防衛省の中を観光ツアーできることを知ってますか。
巨大な防衛省の中には、東京裁判が開かれた法廷として、作家の三島由紀夫が割腹自殺をした場所として誰もが知っている建物が記念館となっている。。またこの建物は戦前には大本営陸軍部、陸軍省、参謀本部がここに置かれていたことは昭和史の中でもつとに有名である。
記念館全景
私たちも今回の企画がないと防衛省の中など見る機会がない。ツアーは一日2回午前と午後に案内嬢が親切にガイドしてくれる。 記念館(正式には旧1号館)の中にある大講堂は東京裁判が行われた。映画やテレビで見た東京裁判の場所が以外に小じんまりしているのには驚いた。
大講堂
講堂は昭和9年に陸軍士官学校の講堂として作られた。床は黒光りして歴史の重みを感じる。30センチ角のナラ材を約7200枚が敷きつめられている。幾多の著名な軍人が戦犯として裁かれ、床を歩いて法廷に立ったのかと思うと胸に迫るものがある。戦前、この講堂正面には天皇陛下がお出ましになる時に座る玉座がある。玉座右には陛下が上がる階段は黒々と光っていた。しかし、残念な事に記念館の展示物は期待したほどの資料は見当たらなかった。
陛下専用階段
銃を持った自衛官がいる姿はいかにも日本の国防を司る省庁を感じさせる1シーンを見る事ができた。
銃を持つ自衛官
広大な防衛省を廻る2時間のツアーを皆さんも一度は体験なさったら、日本の戦前戦後の歴史に触れる良いチャンスだと思うのですが。
兄の戦死の謎
猪熊さんの兄房蔵さんが所属した「白龍隊」は20年3月10日、回天を搭載した第18号輸送艦もろとも戦死したと認定されていたにもかかわらず、厚生省の記録広報には、この18号輸送艦に乗っていない事になっていた。なぜ?か、白龍隊回天搭乗員の兄が、乗るべき自分の「回天」に乗らず、一人で隊と離れて、鹿児島から別の輸送船に乗って中国近海で戦死したことになっていた。こんなことがあるのだろうか。1998年の厚生省の記録に記載されていた。猪熊さんは、その記載が兄の戦死の謎を追うきっかけになった。
回天の模型(大津島の回天記念館前に展示されている)
回天模型
回天訓練施設に運ぶためのトンネルの中をトロッコが走った。トンネルは人目を避けるためだった。
トンネルを歩く猪熊さん。
トンネルを歩く猪熊さん
25年以上前、戸籍原本に兄についての記述を発見した。「昭和20年3月14日日時不詳東支那において戦死横須賀地方復員人事局人事部長斎藤昇 報告昭和22年12月9日受付」と記載されていた。海軍の特攻隊員が航空機ではなく、水中特攻兵器回天の搭乗員が「東支那」で戦死?
「東支那」は「東支那海」とは全く違う。「北支那」とか「「南支那」という用語はあっても、「東支那」という地域は存在しない。これは何だ!猪熊さんは公の戸籍原本にいい加減な地域名の記載されかたに、戦死者がこんな粗雑な扱い方をされていることに怒りを感じた。


再び回天と猪熊さん
昨日書いた「森麻季リサイタル」は私にとっての一服の清涼剤的なものである。
今日は、再び人間魚雷回天で散った猪熊さんの兄上の”猪熊房蔵さん”について書いてみた。弟の猪熊さんは兄・房蔵さんお戦死についてどうしても合点がいかなかった。
写真は猪熊房蔵さん
猪熊房蔵
昭和20年3月、回天の基地は九州、四国、静岡、千葉など太平洋に面した地域に点在していた。猪熊房蔵さんが所属する部隊「白龍隊」は光基地から出撃した。練習は大津島で訓練を重ねた。この時期は戦局が日増しに厳しくなり、フイリッピンも制圧されていた。そして、次は台湾か沖縄かと思われており、それならば、敵が来る地点、沖縄本島に待ち伏せをして潜水艦を使わずに回天による戦果を期待した。今考えるとむちゃくちゃな考えと思うが・・・・そして、第一陣の白龍隊は潜水艦ではなく輸送艦に曳航された。武器を持たない輸送艦が沖縄に無事に行きつけるはずもなく、逆に敵の潜水艦に撃沈された。乗船していた白龍隊員も生死不明のまま3月30日戦死と認定された。皮肉な事に必殺兵器「回天」も輸送の途中では無力だった。
白龍隊 出撃に際しての記念写真(猪熊房蔵さんは下列の左から2番目)白いはちまきをした姿は凛々しいくも悲壮に満ちている。
白龍隊
猪熊さん大津島の回天訓練基地を見る後ろ姿
回天発射基地で

文化的な生活です
朝から氷雨と思うほどのつめたい雨の日曜日である。
午後、Xmasコンサートに出かける。紀尾井ホールで「森麻季」のソプラノリサイタルである。この歌手はソプラノと言われるが、ロラトゥーラの類稀なる技術と透明感のある美声以前にもリサイタルで心を癒してくれた。彼女の歌うモーツアルトやバッハのミサ曲と美声は私の最近のささくれ立つ気分が癒される。「オー・ホリ・ナイト」はみんなもよく知っているミサ曲はグーと胸に染みいる。
写真はソプラノ歌手”森真季”(森真紀のホームページより)
img_mm_news.jpg
我が社の長尾君(製作中の映画の監督)は「吉丸さんは文化的な生活をしてますね」と言う。私「我々が製作する映画だって充分に文化的なものじゃないか」と。

戦場体験をどう受け続けるかのシンポジューム
寒い日である。午後から千駄ヶ谷の日本青年館の会議室で小さな会合があった。不戦兵士市民の会が主催するシンポジューム「戦場体験をどう受け続けるか」を取材する。
開場全景
講師には元兵士の二人が講師として招かれていた。近藤一さんと小山一郎さん。二人の話には説得力と赤裸々で生々しい戦場体験が「語り部」という肩書きのもと話された。お二人とも88才、戦争時代は25才、昭和15年に招集されて戦場に行った。近藤一さんは中国戦線と沖縄戦を体験した。もう一方の小山一郎さんも同じく昭和15年に北支那派遣軍として中国山東省に駐留し、シベリヤに抑留された。 
  写真は近藤一さん
近藤一さん
写真は小山一郎さん
小山一郎さん
私は「撫順三光作戦」という中国戦線のでの歴史的な事件をはじめて知った。あまりにも生々しい事実に驚き、信じ難い歴史上の出来事を。日本軍が行なった戦場体験を「語り部」として話す勇気には感服した。特に小山さんが語る軍隊教育で生きた人間を突き刺す訓練をしながら軍人精神を訓練する事、三光作戦とは#殺し尽くす、焼き尽くす、奪い尽くすという三つの行動だったという話には平和な生活をする現在の我々には大きなショックだった。戦後、小山さんはシベリヤから中国に移送され、戦争犯罪調査のために撫順に戦犯として抑留されたが、時の周恩来総理の寛大な処置によって起訴を免除され帰国した。それ以後、自分たち日本軍が犯した事実を「語り部」として戦場体験を語り継いできた。
会場には、先日インタビューした猪熊さんも来て居られた。
猪熊さんと中田事務局長


シベリヤに抑留された少年兵の猪熊さん/その2
猪熊さんの家には6匹のネコちゃんたちが住んでいる。取材に伺った時、わたしの足には戯れ付くは、取材のかメラの前を横切る、同時録音するバックに喧嘩する声が聞こえる。私たちは一切気にしないでカメラを廻した。
ねこと猪熊さん
そんな姿も猪熊さんの心優しい一面であると考えたからだ。
猪熊さんの始めての戦場体験が茨城の日立飛行部隊で米軍からの機銃掃射ということは前回のブログに書いた。その飛行部隊では多くの同期の仲間が亡くなった。生き残った猪熊さんたちは、死んだ16才から19才の仲間たちのバラバラになった胴体、手足、脳みそが飛び出した頭を元の体にそろえる作業をした。悲しくて涙も出なかった。16才の青春の忘れられない思い出だったという。
間もなくして20年4月、部隊は台湾、沖縄へと移動した。沖縄へ移動した部隊は全員が亡くなった。猪熊さんは台湾へ移動したために生き延びる事になる。そして、中国の関東軍に転属して満州の長春で国境警備につく。
20年8月9日 、ソ連軍が進侵攻。20年8月11日、白頭山(今の北朝鮮)に部隊が集結することになり、16才で水さかずきをした時は自分の運命もこれまでと観念したという。8月15日の終戦も知らずに、8月17日も銃声が轟いた。9月初め、武装解除され武器を持たない猪熊さんたちはソ連軍の捕虜になった。貨物列車に荷物のように乗せられ、シベリヤのフラゴンチェスという森林の村で木材の伐採という過激な労働を強いられた。それからシベリヤの大地を点々と移動し、体力のない者は栄養失調で次々と亡くなった。(上の列 左が猪熊さん)
シベリヤ抑留時代JPG
22年11月末、ナホトカから舞鶴へ。日本の景色の美しさに帰国出来た、生き延びたという実感を持った。
シベリヤに抑留された少年兵の猪熊さん
猪熊さんの自宅を訪ね、少年兵として志願した頃、そして、シベリヤ抑留時代の話をインタビューした。
猪熊さん

猪熊さんは4人の男兄弟がいた。上の3人はそれぞれが予科練に行ったりと日本軍の兵士になっていた。当時自分だけが・・という気持ちで16才で特別幹部候補生制度(別名/特幹)に志願した。昭和19年4月であった。ぎっしりと並ぶシベリヤ抑留や回天の資料の中に人間魚雷回天で戦死した大好きだった兄の房蔵さんの写真が飾られていた。
本と写真
猪熊さんが志願した昭和19年、既に戦局は悪化の兆しが出ていた。1年半という短い軍人教育で戦場に出て行かなくてはならなかった。   15才の猪熊少年は通信兵を選んだ。この選択が後に死と生の運を分ける事になるのである。1900人の特別幹部候補生のうち1200名が戦死したという。
 昭和20年2月、特幹を卒業し、始めての戦場は日立中市の日立航空隊の通信隊に所属。鹿島沖から米軍の艦載機による攻撃を受けた。始めての戦場体験は艦載機の機銃掃射から身を守る事だった。「真正面から低空で飛んでくるグラマンの機銃掃射には死を覚悟した。米軍の撃つ機関銃の薬莢がカランカランと地面に落ちる音が今でも忘れられない。「16才の少年兵はグラマンの機銃掃射から逃げることだったと」と猪熊さんは語る。



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