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吉丸 昌昭

Author:吉丸 昌昭
ドキュメンタリーの重鎮だった牛山純一氏の率いる日本映像記録センターに所属し、「すばらしい世界旅行」や「知られざる世界」などドキュメンタリー番組のカメラマンとして世界各国を取材。現在は、映像製作会社の代表プロデユーサーである。

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ドキュメンタリー映画「二つの故国をつなぐ歌」              その後の反響は
「二つの故国をつなぐ歌~Diva早春賦をうたう~」 このブログでは製作時のこぼれ話や上映後の反響などをご紹介していきます 。
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私のドキュメンタリー映像の始めての作品
いや~驚いている。昨日、我が社に税務署が入った事をブログに載せたら視聴者の関心が一気に上がった。一昨日が9件、昨日が26件、今日は22時現在で33件。我が社にとって始めてのドキュメンタリー映画「二つの故国をつなぐ歌」が税務署は資産的に価値があると見たのだろうか・・・・と書いた。
正直なところ映像製作会社ほどもうからない業界はないと日頃思い続けている。なのにである。
我が社のような広告宣伝のいわば末端の製作会社は1円でも「黒字」にしないと金融機関は見向きもされないのが実情である。決して有り余る予算なんか有りはしない。毎日身を粉にしてただ映像作りが”大好き” そんな人たちがカメラに向かい、編集機にかじりついて出来上がった作品に達成感を感じながら、「映像文化」に寄与している。
そんな愚痴を書いていたら、私が始めて本格的なドキュメンタリー映像に参加した作品(日本テレビ+日本映像記録センターの「すばらしい世界旅行」 )  ”パプアニューギニア~セピック川探検~の写真が居間に飾ってあるのに気づいた。(気が付いたというのも妙だが)
写真は1977年(昭和52年)パプアニューギニアの奥地テレフォルミンの裸族と1ヶ月?間一緒に暮らして取材した時の記念写真である。私が38才 ガリガリにやせていて、ひげもない。
マルボローのTシャツを着た私と裸でペニスケースを付けた男と対照的でおもしろい!
今後、ブログに書く事がない時は、私の懐かしの映像記録写真と記事を載せようと思っている。
セピック探検5部作



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自主制作映画作品も会社にとって資産である
先週、我が社に久しぶりに税務署の監査が入った。我が社も創立して23年が経つ。過去2回税務署から監査が入り何らかの科目に課税された。前回は6年前だった。良く言われるのは「もうけているから税務署が監査に入るのだ」と。  冗談じゃない! きちんと会計している会社ほど定期的に調べられるのである。
今回の調査官は麻布税務署に長く在籍していた”映画など著作権”などに詳しいベテランの上席調査官のようだ。我が社の帳簿を閲覧し、昨年製作した「二つの故国をつなぐ歌」が資産的な価値があると言われた。芸術文化振興基金からの助成金を受けるほどの優秀な映画と税務署からも見られるとは”トホホ”である。
製作費がいくらかかったか、その製作費に対して課税するようだ。プロデューサーである私が関わった時点から製作費として計算しなくてはいけないわけである。しかし、この作品は計算が非常に難しい。イトコのサクラさんがスマトラ沖の大地震と大津波に遭い、お見舞いにアチェに出かけた事がそもそも始まりだった。もちろん費用は自腹であり、通訳兼アシスタントは息子が同行した。これ等の費用も製作費として計算されるのだろうか?
diva_chirashi.jpg

映画第2作の上映会場探しは結構大変
先週から我々が製作中のドキュメンタリー映画の上映会場を探しに難行している。昨年製作した「二つの故国をつなぐ歌」の上映は以外にスムーズに「なかのゼロ」視聴覚室(100人修養)で開催出来た。あの時は金曜日夕方17時から2回、翌々の日曜日も17時から2回の上映が出来た。
18日、朝9時から「なかのゼロ」視聴覚室の上映予約の抽選の参加予約をネットで行なった。4月18日と19日を予約した。私は勘違いしていた。18日9時から早い者勝ちで予約を入れるものと思っていた。しかし、予約を入れたが抽選なり希望の上映が決められる。先々週は代々木上原の「けやきホール」も予約抽選に参加した。これは5月連休明けの土、曜である。この「けやきホール」は古賀政男の資産で作られた200人規模のホールである。「なかのゼロ」は中野区の施設だから使用料もすごく安い。
まーどちらかが決まるだろう。
真保祐一の「真夜中の神話」という冒険小説
私は真保祐一という作家の書く冒険小説が好きで良く読む。今読んでいる「真夜中の神話」はインドネシアのカリマンタンの奥地に主人公の女性が飛行機事故で九死に一生を得て助かる。その墜落したのがインドネシア・カリマンタンの山奥の村で神秘的な歌声を持つ少女と出会い、その「歌声の妖術」で驚異的に回復する。その少女の「歌声の妖術」はコウモリを呼び寄せる力があるという。
DSC_0001.jpg
 先週、インドネシア文化宮に中カリマンタンから来日した文化使節団の中でチトゥラさんが演じる「女性祈祷師の舞」を見た。この美人の女性が踊り、ロウソクに点した火にダマール樹脂を用いた火炎の技が迫力満点だった。
踊りと火
やはりインドネシアでも「祈祷師」とか「妖術」などには女性が多いのだろうか。もっとも日本の古代の卑弥呼も「女性祈祷師」だったとか。
今読んでいる「真夜中の神話」はインドネシアに興味ある方にはお勧めの一冊か。



文化庁と芸術文化振興会
昨日と今日の2日間にわたり文化庁と芸術文化振興会の補助金の説明会が開かれた。昨日は映画制作の補助金についての説明会である。井の頭線の駒場にある「こまばエミナース」で開かれた。映画の補助金を申請する事業者は圧倒的に劇映画を製作する団体が多い。今回の説明会の大きなポイントは、今年度(平成20年度)までは、文化庁と芸術文化振興会が映画製作に補助金を出してくれていた。しかし、来年度からは一元化されて文化庁のみになった。前々から文化庁と芸術文化振興会の二カ所から助成していることに複雑な思いがあった。我々のような自主映画製作者には二つの企画を別々に出せる事と、一つの企画を併願出来る大きな利点があった。文化庁は一元化することで助成する数が半分になるということはありません・・・と言う。しかし、前記した利点がなくなることは、いずれにせよ私たち自主映画製作者には痛手である。
インドネシア・カリマンタンの文化使節団来日
10月8日以来ブログを更新しなかったら、私のブログを見ていただいている人が「ガクン」と右肩下がりに急降下した。私のブログは毎日何件見ているかの数字がグラフになって管理者にすぐ結果がわかるようになっている。この急降下は世界同時株価の急落を見ているようである。
今日は私の社が何かとインドネシアのアチェ関係では協力していただいているインドネシア文化宮(大川誠一氏主宰)にインドネシアの中カリマンタン州政府の文化使節団が来日して、地元の民族舞踊などを披露してくれた。そのダヤク舞踊の写真をインドネシア文化宮のブログよりいち早く紹介する。この踊りの意味は説明を受けたが私は余り理解していないまま、写真を掲載してしまった。
大川さんお先に申しわけ有りません。
踊り手の女性がローソクに火薬のようなものをかけるとパッと火が上がる。この写真だけ見ていると
美人魔術師が手をかざすと火の手が上がるみたいだ。
この文化使節団についての詳細記事はインドネシア文化宮のブログに掲載されます。
踊り2
踊り手の女性と記念写真!丸顔の美人。まるで恋人が寄り添っているようだ。
舞踊家と記念写真1JPG
これで我がブログを見ている人が、今日から明日にかけて少しは増えてくれるだろうか。G7の結果が明日の株価に反映するように上がってくれるだろうか・・・・・・

「文化庁」の助成金内定の後が大変!
文化庁の内定すると嬉しい後に”大変多忙”が続いている。難問がいろいろと怒濤のごとく出て来る。
まず最大の難問は16ミリフイルムでの試写だ。60分以内の作品は、100万円以上も変換料を見積もっておかなくてはならない。しかも、国内ではビデオから16ミリフイルムに変換するラボ(映画の現像所)はY社 だけになった。
そもそも35ミリ映画の現像所は4社しかなく、16ミリは需要が殆どないのが現状である。では、映画が盛んな台湾、香港を調べると全く16ミリは処理出来ないそうだ。さらに調らべは現在ヨーロッパのオランダに問い合わせ中なのだがはたして?が付く、
もうひとつの難問は都内で16ミリの試写室はこれまた皆無ときている。自治体が運営する施設には映写機は設備されている、映写機を扱える人は我々が確保するしかない。頭を抱えている・・・・・・・
凄惨な攻防戦! 硫黄島
2006年に名匠クリント・イーストウット監督が手がけた硫黄島の戦闘を描いた二部作「硫黄島からの手紙」は渡辺謙が出演して昨年話題になった。その戦闘に関わって生きて捕虜になった三田春次さんが書いた著作を読んでいる。「凄惨な攻防戦! 硫黄島 死から生への回帰道」は50ページほどのエッセイ風の回顧録である。
硫黄島
先日、日比谷公会堂でも演壇ににたった一人である。この本の帯に ”元兵士が沈黙を破り、亡き父にも兄弟にも語れなかった真実をいま明かすー” 戦友の遺体すら顧みず必死で生き抜き、ただ死ぬために戦った日々、捕虜となり、ハワイやペンシルバにヤで過ごした捕虜収容所生活。生死の狭間で見た「戦争」という悲劇、その現実がここにある。” 
「戦場体験放映保存の会」には、ビデオで証言を述べる人の中にはこのように活字で自らの戦争体験を記録している方も結構いらっしゃる。


家族にも話せない秘められた戦場体験
私のブログを見た人から第一作と今回の製作されている映画「語らずに死ねるか~無名の元兵士たちの声~」は関係性があるのかと問われた。前作の映画はご存知のように、終戦とともに日本へ戻った瞼の父を探す日本人の父親とインドネシア人女性の間に生まれた「サクラ」の半生とも言うべきドキュメンタリー映画である。サクラの瞼の父親”池尻昌言”はB級戦犯として戦犯解除になるまで隠れるように京都に住んでいた。そして、「アチェに遺した娘」を思いながら家族から疎外されるように生涯を閉じた。自分の「戦場体験」を封印するかのようになかなか話してくれなかったそうだ。スマトラのアチェでは戦闘もない比較的平穏に終戦を迎え、彼にとって生涯の中で一番幸せだった時期かと思われる。しかし、8月15日を境に何もかもが一変した。
昌信軍服姿
池尻は中支から仏印を転戦しシンガポールからスマトラのアチェに上陸したと聴いている。それまではきっと耳を押さえたくなる話ばかりだったのではないのだろうか。
そもそもは、池尻の「戦場体験」から第一作の映画製作が始まったと言っても良い。だから、第二作は、今後、戦場体験の証言シリーズに発展して行くかきっかけかもしれない。
映画製作の意義
”無名の元兵士たち”がブログをご覧いただいている皆様の周りにおられませんか。若い人は「あ!もしかしたらお祖父ちゃんは戦争に行っていたのかも知れない。」  80才以上のお祖父さんやお父さん、彼らは戦場体験者は黙して語らない方が多い。なぜなら子供や孫が聴いてくれない、それだけではなく、その体験した事実を何らかの事情で誰にも話したくないという方もいる。「またお祖父ちゃんが戦争に行ったことの自慢話をしている、もう何十回も同じこと聴いたよ。」 彼らは戦場体験者は、「どうせ話してもしょうがないよ」と言う。
 私の知人のお父さんは85才をとおに過ぎた方である。フイリッピンで戦場を体験し、腰には銃弾の破片があると言っていた。その知人は「おやじは何かと言えば戦争へ行った自慢話をするんだから、嫌になってしまうよ」 と。
私たちが提出した文化庁への企画書の中に採択された重要なポイントになっている文章がある。 「戦後六十年を機に、あの大戦を「録画・手記」で後世に遺すボランテイア運動をする若者たちとその運動に感銘し、黙して語らなかったが口を開きだした元兵士たちがいる。老若一体の保存運動は3年間で元兵士たちの証言者が約1万人近くに達した。この会が「戦場体験放映保存の会」である。平成生まれの大学生から50代の人たちはほとんどが戦争を知らない世代だ。私たちの前作「二つの故国をつなぐ歌」を製作する中でインドネシアに従軍した元兵士たちと交流を深めることができた。価値観を共有する我々と「戦場体験放映保存の会」が協力し合い、1万人以上の証言を収録しします。もう間もなく戦場をナマで語れる人たちがいなくなっていきます。時間との戦いです。

ドキュメンタリー映画「語らずに死ねるか!無名へ兵士の声」が文化庁の補助金内定す
今日のブログも先日の日比谷公会堂での戦場体験者の証言を取り上げる予定でいたが、予定を変更して下記の”Bigニュース”をご覧いただきたい。
logo.gif
今朝、我が社の郵便ポストに「文化庁」の大型の封筒が投函された。待ちにまった第二作のドキュメンタリー映画「語らずに死ねるか!無名へ元兵士の声」が文化庁の補助金内定の通知が来た。日本政府の文化の頂点である「文化庁」から我々が製作する作品に内定とはいえ、補助金が認められたということである。こんな嬉しいことはない。私と演出の長尾が「やったね!とパシンンと握手した。
この作品については既にブログにも書き込んできた。作品の企画意図は次のようなものである。”長く平和を淳受してきた日本。しかし、その平和のあり方について今、国内では様々な議論がなされている。10年後、20年後の日本はどうなるか・・・一つだけはっきり言える事があります。それは「その頃には、戦争を実体験した世代がいなくなる」ということです。そのことを一番実感し、危機感を抱いているのが戦争を体験した元兵士たちです。今こそ自らの戦争体験を残したい、同じことを繰り返さないためにも、自分の体験を子供や孫にたちに語り継ぐことが最後の使命だと考えている元兵士の方々がいます。戦争を知らない世代が圧倒的多数となり、社会が大きく変貌しようとしている今こそ、私たちは(戦争を知らない世代)積極的に彼ら元兵士たちの声を聞き、私たちの財産として後世まで残していかなければならない。それは、単に戦争の悲惨さな実相を伝えるということにとどまらず、戦争を知らない世代である私たちの未来を考えることでもあり、さらに生命の尊さ、生きることの意義を問い直すことにつながると考えます。”  この長くて、こ難しい企画意図を審査委員の方が読んでいただいた事に感謝の気持ちでいっぱいです。
「あの戦場を語り継ぐ集い」の戦場体験者の声から(2)
山宮さん
山宮八洲男さん(88才)はあのミッドウエー・ガダルカナル攻防戦に参加した元海軍兵士である。昭和13年に横須賀海兵団を出て、支那事変真っ盛りの時に上海の第三艦隊の機雷除去隊の兵士に、そして、昭和17年、有名なミッドウエー海戦に山本連合艦隊の指揮下に入ったが作戦失敗し一時内地帰還。すぐに、ガダルカナルに飛行場建設するため上陸したが、建設機械もなく、ツルハシ、シャベル,斧などで1ヶ月で800mの飛行場を作った。しかし、飛行機は一機も来なく、逆にアメリカ軍が逆上陸される。その後、日本軍も飛行場の奪還を目指したが、物量の優れるアメリカ軍との消耗戦となり、補給が続かない日本軍はガダルカナルを放棄。結果的には日本の陸軍と海軍を併せると25000人が戦死した。この戦いで南太平洋のに於ける日本の勢力は激減した。



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