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吉丸 昌昭

Author:吉丸 昌昭
ドキュメンタリーの重鎮だった牛山純一氏の率いる日本映像記録センターに所属し、「すばらしい世界旅行」や「知られざる世界」などドキュメンタリー番組のカメラマンとして世界各国を取材。現在は、映像製作会社の代表プロデユーサーである。

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ドキュメンタリー映画「二つの故国をつなぐ歌」              その後の反響は
「二つの故国をつなぐ歌~Diva早春賦をうたう~」 このブログでは製作時のこぼれ話や上映後の反響などをご紹介していきます 。
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インドネシア外務大臣のフォーラムに参加
インドネシア協会から今週の初めメールにて次のような興味あるフォーラムに誘われた。日本国際問題研究所という財団が主催でインドネシア外務大臣 ハッサン・ウイラユダ氏が「日本・インドネシアの50年:地域・国際社会における二国間関係」を講演した。私がこのような講演会に自ら聴きに行こうと思う事って滅多にない。それほど、私はインドネシアに傾倒していっている。大臣の話の中で、中国の肥大化している国力、また国内の紛争地域だったアチェ、パプアの問題にも触れて1時間の有意義な講演だった。写真は外務大臣 ハッサン・ウイラユダ氏。
IMG_3524.jpg

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JICA兵庫の上映会のアンケート
JICA兵庫の上映会で鑑賞された方々30人からのアンケートを担当の田中さんが送ってくれた。
殆どの方から好意的な言葉をいただいている。Q:アンケートの質問、A:は鑑賞された方の答え。
Q:一番印象に残ったシーンは A:日本での墓参り・・・これは今までの上映会で最も多い印象に残ったシーンである。私のアンケートでの印象は阪神淡路大震災を体験していると見る視点が違うんだなーと思った。例えば、○津波のシーンは改めて巨大な自然災害に驚いた。○半旗のインドネシア国旗のバックにモスクがある。○阪神大震災経験者にとってスマトラ沖地震は大変心を痛めたました。
Q:プロデューサー、監督へのメッセージは。A:本当の国際教養とは何か,もう一度思い直すきっかけになつた映画だったという感想は、なにかジーンとした。また、多かった感想は「家族の絆」と書かれていたのは 映画の一番言いたかった事だけに嬉しかった。
このように映画を観てすぐに書いたアンケートは真摯な意見だと思った。ありがとうございました。
神戸の上映会は大成功でした
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上記の写真は1回目の上映
昨日、JICA兵庫ブリーフィングルームで13時から上映会が行われた。毎回、お客様が来てくれるだろうかと心配する。朝,8時の新幹線に乗った。東京はこの二,三日気温が低く寒いくらいだ。
新大阪から快速のJR東海道線で神戸の三宮まで行き、タクシーで会場へ。JICA兵庫のあるある場所は東京のお台場のように近代的なビルが建ち並ぶ。
12時に会場に入り,担当者の田中さん、南谷さんと挨拶し簡単な進行準備をする。南谷さんはJICAインドネシアの職員として4月までアチェにも滞在していたそうだ。何か親近感を感じて嬉しかった。
13時からJICAのPRがあり、1回目の上映会の後、我々の講演が行われた。私からはこの映画が製作されるまでのいきさつやインドネシア語版の製作とアチェでの上映会の様子を話した。長尾君は
撮影の裏話をおもしろおかしく紹介する。
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インドネシアの地図をバックに講演。
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上映会の出席者は定員60名にほぼ達していたと思われた。上映後、目を赤くして熱っぽく語られた女性の方「こと細かな構成、素晴らしかったです」と、お名前を聞くことを失念してしまった。もう一方、清水さんという男性の方は「ブログを見ていて、今日上映があることを知っていた。旅行中だった予定を早めて上映会に来ました」とのこと。カメラマンの山田君のご両親が来てくれていた。(彼は大阪の出身である。)1回目の上映後にご丁重な挨拶をいただき恐縮してしまった。
会場のお客様の多くの方は、私のブログを見ていますとのこと。そもそも、JICA兵庫の担当の田中さんも、私のブログから、作品の存在を知ったそうだ。私がせっせとマメに書くブログもバカに出来ない。鑑賞されたある方が「こんな素晴らしい映画をどうしてテレビで放映しないのですか」とおっしゃる。今のテレビ業界(NHKも含めて)は、いくら優れた作品(アカデミー記録映画賞さえも)も簡単に公共の電波を使って流してくれないのが実情である。でもテレビは1回しか流れないが(良くて再放送止まり)、映画はチャンスさえあれば何回でも上映することができる。だから、私たちは会場にわざわざ足を運んで来てくれるお客様を大事にしたい。お客様から直に熱っぽく感想を話していただいた時の感激は製作者冥利に尽きる。本当に嬉しい。テレビ放映では絶対に味わうことができない。
すばらしいチャンスをくれたJICA兵庫の皆様に感謝いたします。また、会場にいらっした神戸や大阪の皆様ありがとうございました。


明日、いよいよJICA兵庫で上映会
「二つの故国をつなぐ歌  ~Diva早春賦をうたう~」の関西地域 第三弾の上映会が開催される。
神戸は余り詳しくはないが、親友がいるため関西出張があれば神戸まで足を伸ばして友人と会ったりしている。
 また、DIivaちゃんのお父さんは地震の研究者としてアチェの国立シア. クアラ大学の講師をしている。2006年3月 神戸大学から招待されて研究発表をしたことがある。彼に会うために、わざわざ神戸に来たが忙しくてなかなか会う時間が取れなくて、さんざん待たされたことを思い出す。
 明日は午後1時から1回目の上映会、2時から私と,長尾監督で講演??をする。さらに15時から2回目の上映会。この2時からの講演と言う時間が私にとって苦痛でたまらない。先の、奈良の天理大学でも、私の講演がうまくいかなくて・・・。明日は長尾監督が主役なので後はお任せだ!
そう、言いながらも、明日は知り合いに片っ端から見に来てくれとメールや電話攻勢をしている。
上映会のキャッチフレーズは「見ることから始まる国際協力」 私たちが製作した映画は、このコピーにピッタリはまります。是非、ご来場を!!
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家裁から東京法務局へとたらい回し
夏休みの2日目、相変わらずの暑い日である。昼を過ぎて、空はにわかに暗くなり雨が降りそうだ。
車を日比谷公園の地下駐車場に留めて霞ヶ関の東京家庭裁判所へ。日比谷公園は歩く人もまばら,曇っていると蝉時雨もないのだろうか。
とりあえず出来るだけの「ルツ子さん」の資料を集めて家裁へ持参した。今日で家裁は2回目である。
受け付けでは銀行のように番号を引いてボードに番号が出て,呼び出しの機械的な声が流れる。「番号○○の部屋にどうぞ」 指定された小部屋に入り 「今日はどのような相談ですか」と女性の係官である。今まで何回,同じことを言わされただろうか・・・・
係りの女性は六法全書を捲りながら中々判例がないのだろうか、それとも私の要望に応えるだけの知識がないのだろうか。そして、結局は「民事相談係り」に廻された。ここでも銀行のように番号を引く。定年まじかと思われる男性係官が応対してくれた。「家裁に来るようには何処で言われましたか」ルツ子さんの生年月日や出生地が分からない・・・・・「この相談は九段の東京法務局へ行き、どうすれば良いか聞いて下さい」と地図が書かれた1枚の案内をくれた。1回目に訪れた時の係官は「この用紙に記入し、800円の印紙を付けて提出して下さい。出来るだけお姉さんの分かる資料を添付した方が良いです」と言い書類をくれた。この時はいかにも審議されそうなことを希望的に言ってくれた。あれは何だったのだろうか・・・・・・・・役所の無責任なたらい回し。その4。


吉丸ルツ子の名を戸籍に遺す活動
東京ではお盆と言えば7月である。しかし、日本のほとんどが8月13日からお盆に入る。
今日は姉のルツ子さんを我が吉丸家の戸籍に名を遺そうと菩提寺の龍光寺に行き墓前に誓った。龍光寺の百日紅(さるすべり)の薄紅色の花が満開だった。辺りは蝉がミンミンと鳴いていた。
サルスベリ咲く龍光寺
墓標に刻まれた吉丸ルツ子の名前
ルツ子墓標JPG

ルツ子墓標UP
吉丸リツ子は支那事変が始まった昭和12年に両親と姉の4人で一時日本に引き上げた。先の姉妹で撮影された写真は,未だ3才になったばかりだった。東京の親戚の家に身を寄せたそうだ。
そして、間もなくして再び両親とともに中国に戻り、昭和13年10月11日に赤痢にかかって死んだ。
寺の過去帳や墓標には4才と書かれているが、昭和10年7月6日生まれだから今なら3才3ヶ月。可愛い盛りに命を落したルツ子のことは両親は痛恨の極みだったようだ。戦災で戸籍が焼失したとはいえ、なぜ、我が子が戸籍から漏れたまま今に至ったのだろうか。

東京大空襲の事実
戸籍謄本から消えた姉・ルツ子 満2才6ケ月 
                                                    (昭和12年1月 中国 チンタオの写真館で撮影した)
ルツ子4才
「文京ふるさと歴史館」に聞いてみた。はたして私たちの戸籍が存在していた本郷区役所(本郷支庁舎)は、3月の空襲でどうだったのだろう。「文京ふるさと歴史館」の文芸委員である川口さんが親切に対応して下さり資料をFAXしてくれた。ありがとうございます。
その資料は「文京区志」(昭和31年、文京区役所発行)と「文京区史」巻4(全5巻、昭和44年、文京区役所発行)に詳しく載っていた。それによると”本郷支庁舎は、昭和20年3月9日夜の空襲で火災に遭い,10日未明庁舎の内部と書類の多くを焼失した。この時戸籍簿も多大な被害を受けた。
駒込動坂町の全戸籍簿が焼けた”と記されている。「文京区史」には”本郷区の被害は3月10日の大空襲による惨状の一部として語られたにすぎない。東京大空襲といえば隅田川を越えた本所深川の大被害ばかりが強調され、本郷地区の惨状は目をおおいたくなるものだった”と記されていた。
戦後、昭和21年夏,私たちは中国から引き上げてきた。私が6才の時に脳裏に刻まれていた記憶は、あたり一面焼け野原で焼け残った土蔵が一つポツンと建っていた光景である。大津波の跡を見た時、「あ! この風景は戦後の東京だ。」と真っ先に思い浮かべた。

 昭和20年3月10日の東京大空襲により一面焼け野原と化した東京の下町。
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戦後、戸籍謄本から記載漏れのまま、60数年 ほっておかれた4才で亡くなった姉・ルツ子。ふびんでならない。私は,13日から始まる「お盆休み」を利用して霞ヶ関にある家庭裁判所に姉・ルツ子の戸籍復活の申し立てをする。
戸籍法第113条に基づく戸籍の記載に遺漏がある場合における戸籍訂正許可の申し立てにあたる。


姉・ルツ子の戸籍復活にかける
「本郷区駒込動坂町 327番地」が我々の戸籍がある旧住所である。現在は文京区千駄木となっている。父の戸籍謄本には書かれている子供には長女・ヒデ、長男・宗利、そして私の名前が連なっている。二女・ルツ子の名前がない。
姉妹
(撮影:田島千寿子)
昭和12年、支那事変が始まって中国在住日本人は戦火を逃れて、一時日本に帰国した。一家は親戚の家に身を寄せた。その時撮影された。写真として二人の姉妹のあどけない姿がある。左側がルツ子、右側が長女の姉・田島ヒデ、今も元気で主婦をしている。 
言い訳のように昭和20年3月に焼失したという説明文があるが、良く読めない。ないということは間違いなく姉・ルツ子は戸籍から抜け落ちている。しかし、
吉丸家の墓石には二女・ルツ子の戒名・桂月妙圓童女が刻まれ,仏壇の位牌には昭和13年10月11日に亡くなった事が記されている。では、菩提寺の過去帳には記載されているのだろうか。問い合わせた結果、菩提寺の龍光寺から記載されている事実を住職の署名入りで送っていただいた。
現在、自分の直系の人間の戸籍謄本は閲覧,取得ができるが、枝葉にあたる兄弟の戸籍謄本(死んでいる除籍)は個人保護法という厄介な法律で見る事が出来ないのだ。
次回は戸籍復活にかける!   何かテレビ番組のタイトルのようだ。もう一回ブログに書いてみようと思う。

戸籍から消えていた二番目の姉
吉丸ルツ子
この写真は70年前の昭和12年1月に撮影された我が家の記念写真である。私の両親と左側が長女、父に抱かれているのが二番目の姉・吉丸ルツ子だ。今日のタイトル「戸籍から消えていた二番目の姉」についてブログに書いてみた。この姉は昭和13年10月に病気で亡くなっている。数えで4才だ。毎年、8月15日が近づくと戦争の事、敗戦の事が大きな話題となってマスコミを賑わす。
我が家も少なからず戦争の渦に巻き込まれた。父親の相続と戦争は一見何も関係がないように思われるが・・・・・
  3年前、父が亡くなり、相続の手続きのために祖父から始まって父の周りの一切の肉親の戸籍が調べられた。この法的な作業は全て司法書士がやってくれていたので私たちは分厚く綴じられた戸籍謄本を見る事もなく相続が終わった。
 
  昭和20年3月、東京大空襲で多くの犠牲者が出た。特に下町から山の手の被害が酷かった。戸籍を管理している区役所も焼失した。私たちの戸籍がある文京区役所(当時は本郷区)も一切が焼けてしまったようだ。だから、私たちの戸籍は戦後改めて作り直したものなのである。作り直した時に
どうしてか姉・吉丸ルツ子が戸籍から抜けてしまった。3回にわたってこの姉について書いてみようと思う。



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