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| プロフィール |
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Author:吉丸 昌昭
ドキュメンタリーの重鎮だった牛山純一氏の率いる日本映像記録センターに所属し、「すばらしい世界旅行」や「知られざる世界」などドキュメンタリー番組のカメラマンとして世界各国を取材。現在は、映像製作会社の代表者兼プロデユーサーである。 祖父 吉丸一昌が書いた「早春賦」を顕彰している。
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| 12月8日の早春賦劇場 |
10月31日(水曜日)晴れ、 10月も終わりだ。あの酷暑の夏はついこの間のような気がする。 後、約1ヶ月後の12月8日に開催される安曇野上映会のチラシ原稿が上がって来た。それによると、午后4時半に開演。 タイトル:うたと朗読そして映画の世界へ 第一部 日本の歴史におもく刻まれた昭和16年12月8日・・・・その日をさかいに沢山の苦しみ悲しみが始まったのです・・・・日本の子どもに降りかかった戦災、そして、インドネシアの子どもに降りかかった天災、平和とは・・・命の大切さを、今みんなでみつめなおしてみたい・・・. ◯安曇野の子どもたちが聞き取り制作した紙芝居「ミーちゃんの戦争体験」 ◯インドネシア・バンダアチェの子どもたちが体験した、2004年スマトラ沖大津波の「画」と「作文」ほか ◯音楽:/里の秋/旅愁/早春賦/Divaの夢/命のきずなほか。 DVA映像が朗読や歌声にメリハリをつけてよりいっそう早春賦劇場に感動を与えます。 第二部 映画の上映 ドキュメンタリー映画「二つの故国をつなぐ歌〜Diva早春賦をうたう」 上映会終了後野18時30分から映像プロデユーサーとデレクターを囲んでシンポジュームを開きます。
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| 真珠湾奇襲作戦 |
10月29日(月曜日)晴れ なぜ、日本はハワイの真珠湾を攻撃したのか。目的は、日本軍の南方進出の妨害されることを恐れ、アメリカ艦隊を攻撃して、その干渉を排除する事に成功すれば良かったのである。真珠湾攻撃は作戦の上では見事に成功を治めていたのである。しかし、日本の艦隊は錯覚をしていた。実は、アメリカ艦隊の足止めに成功したに過ぎなかったのである。その後の日本はミッドウェー海戦に至る半年間ほど、日本はアメリカ海軍を相手に大規模な軍事的攻勢はかけていなく、この間にアメリカは艦隊再建に着手していたのである。

戦艦アリゾナが撃沈された。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)より。
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| 昭和16年12月8日という日 |
10月28日(日曜日)晴れ 最近、読み終えた文庫本で「遠ざかる祖国」逢坂剛氏が書いたスパイ小説である。ヨ−ロッパで暗躍する日本人特務機関員から見た日米開戦「真珠湾攻撃」までに至る歴史的な史実を背景に描いた非常におもしろい小説である。今回、安曇野で上映会をする上で12月8日について 少しながら勉強をしている。「真珠湾攻撃」と書いているが、実際は、日本が事前の警告なしに攻撃を開始した。つまり不意打ちというやり方だそうだ。この小説にアメリカ側は日本の暗号を全て解読されていたという。16年の8月頃には既に真珠湾の攻撃を準備していたらしい。そして、日米開戦の翌日、12月9日は日本中が興奮の渦に巻き込まれていた。そして、 戦況はアジアに広まって行く。
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| 安曇野での上映会、再び |
10月26日(金曜日)雨 前にもお伝えしたように12月8日に安曇野市市民会館で「早春賦劇場」というタイトルで私たちの映画が上映される。全体のプログラムが決まって来た。昭和16年12月8日はご存知のようにハワイのパールハーバーに日本軍が攻撃して、事実上、太平洋戦争が勃発した。66年目に当たる日に上映会が行われる。多分、この映画「二つの故国をつなぐ歌〜Diva早春賦をうたう」は最後の上映会になるかもしれない。今まで上映会をした順に列記してみよう。 4月8日龍光寺「吉丸一昌顕彰コンサートとお披露目上映会」、4月14日インドネシア文化宮、4月20日、22日中野ゼロホールの一般公開、4月29日安曇野市「早春賦まつり特別試写会」、5月10日「ジャカルタ上映会」、8月26日「大町市文化会館上映会」そして、9月1,2日 インドネシア・バンダアチェ特別上映会 合計9回で3400人からの方々が鑑賞した。 12月8日は600人からの観客が予想されているから4000人からの動員が出来た事になる。
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| DIva.母Dian,サクラ親子三代 |
10月23日(火曜日)晴れ 朝晩がめっきり寒くなって来た。「秋更かし、隣は何をするひとぞ」か。 3日間ブログの書き込みをお休みしてしまった。今日はDivaちゃんのとっておきの可愛い写真をお見せします。彼女は7月に中学生として進級した。私たちが帰国する前の日にアチェの民族衣装を着て、私たちが待つ、レストランに現れた。説明を聞いたが私の英語力では分からなかった。学校で何か民族衣装を着ての発表会があったとか・・・・サクラさん、Divaのお母さん、そしてDivaと珍しい親子三代の記念写真が撮れた。

なかなかの良い記念写真だと思いませんか。やわらかな光線が外から当たり、写真館で撮影したようにきれいに撮れています。私のとっておきのbest写真です。
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| バンダアチェに新しい空港が出来る |
10月19日(金曜日)曇り後雨 外務省のホームページの中の海外渡航情報では、アチェは「渡航の延期をお勧めします」というリストに入っている。先日のブログに書いた。首都バンダアチェに行くにはジャカルタとスマトラ最大の町、メダンから空路で入るのが一般的である。確かに飛行機に乗って来る外国人は少なく感じる。町を歩いても外国人の姿はそんなに見かけない。ましてや、日本人観光客は皆無である。 現在の飛行場(写真)は椰子の木に囲まれた田舎町の空港といった感じである。飛行機が着くたびに空港はごった返している。アチェは、シンガポールやクワラルンプールから直接だったらかなり近いのにと思う。今、急ピッチで空港ビルが建設されている。 アチェの人たちの悲願は国際空港になることだ。もしかしたら、次に来た時は新しターミナルになっているかもしれない。

建設中の新しい空港ターミナルビル

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| バンダアチェに新しい空港が出来る |
10月19日(金曜日)曇り後雨 アチェは外務省のホームページの中に書かれている「渡航を
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| アチェも渡航危険地域? |
10月17日(水曜日)曇り 先頃、日本人学生がイランで身代金誘拐事件が発生した。今朝のニュースではこの誘拐に会った学生は無事であるとTVニュースは伝えていた。このイランの南東部の地域は外務省の危険地域として「自粛してください」と書かれていたが「絶対入らないように」とは書かれていなかったそうだ。 私どもが行ったインドネシアのアチェも実は、「渡航の延期をお勧めします」と書かれていたのには正直驚いている。括弧で(いつでも退避出来るように準備)とのこと。確かにこの地域は津波の被害以前には、独立運動がくすぶっていたために過激派による散発的なゲリラが活動が起きていた。しかし、津波以後、この過激派とインドネシア政府との調停が成立して穏やかになった。私どもも平気で夜間の外出もしたし、GUMの住む集落にも行った。外務省からそのような情報は撤廃されたと思っていた。いずれにせよ、次回行く時には「渡航の延期」はしないが、十分気を付けなければならないだろう。
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| 12月8日、安曇野での上映会決まる |
10月16日(曇り) この処、安曇野の西山女史から頻繁に電話がかかって来る。12月8日に安曇野市で映画「二つの故国をつなぐ歌」を中心に上映会をすることが決まった。安曇野市では今年,4月29日、あづみ野コンサートホールで上映会を既に開催しているが、お客様からもう一度み観たいというの要望があったそうだ。そのような要望は製作者冥利につきる。 12月8日は何の日か戦中派の人たちにはお分かりかと思います。旧日本軍がハワイの真珠湾を攻撃をした日である。言ってみれば「開戦記念日」なのかもしれない。大東亜戦争に入って行ったきっかけともいえる。
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| 次回作の企画は? |
10月15日(月曜日)曇り しばらくブログの書き込みを休んでしまった。金曜日から今日までの4日間というものは、今日締めきりが迫っていた助成金団体への提出の企画書作成に翻弄されてしまったからだ。 今月から来月までは助成金団体への申請締め切りが目白押しである。昨年の芸術文化振興会からの助成金がもらえたことに味をしめたわけでもないのだが、映画作りというのは金喰い虫である。私の会社におんぶにだっこというわけにもいかない。今までの上映会の売り上げなどはほとんどが無いに等しい。 今後の企画はインドネシアに絞って製作して行くつもりだ。今日提出した企画はやはり地震と津波の話である。日本の優秀な地震、津波予知する近代的な科学技術だけでなく、いかにして、地震や津波から自分の身体を守るかという「防災六か条」の提案である。それだけ? そんなありふれた内容? これ以上はまだ書き込む段階ではないので・・・・
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| オランダ時代の巨木が伐採される |
10月10日(水曜日)くもり 我が家から30メーターほど歩くと武蔵境通りである。2〜3年前から35mに拡張する工事が始まり、神代植物園から我が家の前の通りまでは3月に工事が終わっている。道路拡張の計画が餅ち上がった時、住民の反対運動が起こり、工事が一時頓挫した。がしかし、再び工事が始まった時、緑を残し、住民が暮らしやすい道路になる約束されるならばということで工事が始まった。そして、沿道のケヤキなどが伐採から免れた。どうしてこのような話がとお思いになる方もおられるでしょう。 アチェに住むサクラさんの家の前も一日中車の往来が激しい。津波に襲われる前までは、緑が豊かだったそうだ。しかし、津波が家々を、人の命を奪い尽くしたが、沿道の大きな木は巨大津波にも負けなかった。オランダ統治時代に植えられた樹齢100年以上にもなる木々だった。 写真はサクラさんの家の前の巨木

巨木の後ろにある家(黄色い)の住民は津波が来た時、この木に登り難を逃れたそうだ。 しかし、日増しに増える車の通行のために道路拡張工事が始まり、「邪魔」と言う理由であっさりと沿道の木々は伐採されていった。1平方mあたり地主には50,000ルピアが支払れたそうだ。日本円で5000円くらいか。

沿道の住民は伐採に反対したそうだ。私たちが見ている間に大木が無惨にも切り倒された。

人々は大津波に襲われ多くの「命」が奪われた教訓が生かされていないことに腹ただしさを感じた。木に命を助けられた「恩」も、木や花にも「命」があることも・・・・
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| サバンの日本軍トーチカ |
10月9日(火曜日)雨のち曇り サバンの日本人墓地からサバン港が見られる海岸線を走った所に日本軍が作ったトーチカ跡がある。昭和17年スマトラ・アチェに無血上陸をした、日本軍はウエ島も占領した。日本軍はインド洋から攻めてくる連合軍に備えてオランダの築いた要塞を強化した。

このトーチカから連合軍を迎え撃ったのか。

しかし、連合軍を迎え撃つため、数多くの兵士を駐屯させ食料不足に陥り、日本人には行きにくい雰囲気があったそうだ。 写真提供:インドネシア文化宮ブログから
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| 日本軍の戦跡を見る |
10月8日 体育の日で祝日 体育の日といえば10月10日だった。何時からだろうか。私たち東京オリンピックを知る世代にとって、10月10日に戻してもらいたいものである。前日までザーザー降りの雨が10月10日の朝最高の日本晴れだった。抜けるような青空の中を聖火が点火されたことが忘れられない。その日は1964年(昭和39年)10月10日だった。
さて、ウエ島シリーズ4回目は旧日本軍が遺した戦跡について書いてみた。サバンの町の小高い場所に日本人の墓地がある。鉄条網で囲まれて、草がぼうぼうと生えて荒れ果てていた。

大正時代に没した人、大東亜戦争で戦死した人、中でも目を引いたのは入り口に近い所に建立された記念の墓石だ。こう書かれていた「昭和18年9月11日、インド洋哨戒の帰途ナンコウリ島東方海上の積乱雲の中に消えし佐藤隊の思い出のために」と。佐藤大尉以下6名の人たちが連名で書かれていた。昭和54年に建立され、金文字で鮮やかに書かれてある。佐藤大尉のご両親が建てたと思われる。

また、草蒸した墓地の中程にはこれも記念碑なのか。昭和19年2月11日建立。10910部隊市井隊建立と書かれていた。

昭和19年に建立と言う事は戦時中に戦友たちが建てたのだろうか。荒れ果てた墓地を見るにつけ、時間と共にこうして外地で眠っている方々のことを忘れ去られてしまうのかと思うと、たまらない気持ちで墓地をあとにした。
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| ウエ島最西端の岬 |
10月7日(日曜日)晴れ ウエ島の続き3回目。ほとんど対向車に合わない道を最西端に向かって走った。自然が豊と言う事は不便と悪路が付き物だ。道幅も狭く、穴ぼこだらけの道である。サバンを出て2時間近く走った終着がBau(バウ)岬だ。記念碑が建っていた。マラッカ海峡が見渡せる海原が続いていた。絶景なロケーションである。岬には赤い花があちこちに咲いていた。花びらから見るとランの一種のようだ。


お椀を伏せたような島が遥か彼方に見れる。ロンド島と言い、海兵隊や警察がいて国境の警備に当たっているそうだ。この島の名前は私たちが乗ったJetボートの船名「RONDO」と同じ。

帰り道、大川さんの知り合いが居ると言う事で寄ってみた。その家の庭先が入り江になっていて、映画の1シーンになるような美しい風景にしばし、カメラのシャッターを押した。

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| ウエ島は自然がいっぱい |
10月6日(土曜日)晴れ 昨晩も地震で目が覚めた。すぐテレビを付けたら3時半だった。かなり揺れを感じたが、大したことがなさそうだった。 昨日のウエ島の続きである。バロンハ港にはSerambi Indonesia新聞のサバン支局の人が迎えてくれた。運転手付きで島を案内してくれるそうだ。前の日に大川さんが手配してくれていた。サバンに向かう。途中、サバンの飛行場を通るが柵しか見えない。ここもかつて日本軍が作ったそうだ。今は国軍の飛行機が時折着陸するとか。15分ほどでサバンの町へ。昼食を取る。アチェのごみごみした町と比べ落ち着いている。
 サバンの町 ベチャ(三輪タクシー)が多い。
 ご飯の皿に鶏肉の煮込み?をトッピングで食べる。味が濃くて結構いける。
 魚の切り身、お頭付きだ。 食後、島の最西端へ向かう。所要時間は2時間ぐらいだそうだ。サバンは1970年に自由港としての振興をはかり、賭博場などが開かれ一時繁栄した。しかし、1986年、政治的な問題で自由港としての契約が切れた。2005年、アチェ独立派が政権を握り、再びこのサバンは自由港として脚光を浴びようとしている。 そんな政治問題とは関係なく、島の中は手つかずの自然がいっぱいだ。私たちが車を走らせる途中にサルの群れを何度も見かけた。
 道路に出て来る猿の群れ。
 顔の赤いニホンザルとは違い毛むくじゃらの顔だ。 また、車の音に驚いてイノシシの群れが道を横切ったり、大トカゲまでがのそのそとジャングルの中に逃げ込んで行く。道路の両サイドは手つかずのジャングルだ。
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| ウエ島を訪れる |
10月5日(金曜日)晴れ夕方雨 先日のアチェ取材で是非行ってみたいと思っていたのがウエ島である。大東亜戦争で旧日本軍がスマトラを占領した際に重要な戦略的な場所の一つがアチェから僅かな距離にあるこの島であった。この島の中心地がサバンという古いインドネシア面影のある町である。私たちは二回目(12月〜1月)のアチェ取材で日本軍がアチェに上陸するにあたり何らかな戦跡があるのではと考えていた。 サバンの港 しかし、アチェの人たちはこのウエ島について以外と知らないのに驚いた。特にサクラさんたちは「2-3時間もかかって日帰りは無理だ」とか「島の中での移動が困難だ」と、行かせたくないようだった。私たちが今回行く前の日(9月2日)の夜、ホテルに戻るのが夜の12時を廻っていた。ホテルでサクラさんの長男Donyさんと叔父のJohnさんが私たちのことを待っていた。何か、あったのかと心配した。Donyさんは「私も明日一緒に行きたいのですが」と。私は「大川さんは2回ほどサバンに行った事があるから心配しなくても大丈夫だ」と言うと「母親がマサアキの護衛で行けというのでね」正直心配してくれるのは有り難いのだが、Donyが一緒だと世話好きな彼の事だから、とことん時間がかかり、日帰りが無理になる恐れが考えられた。折角の好意なのだが、丁重に断りの入れた。 9月3日 9時30分のJETボートで、わずか45分でウエ島のバロハン港に到着した。何だという感じの距離なのだ。
 ウエ島へ行くJETボート
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| ラマダン 断食 |
10月3日(水曜日)曇り 今、アチェはラマダン月に入っている。アチェではほとんどの人がイスラム信者で、人口の約90%以上をしめている。私たちが帰国する一週間のちにラマダンが始まると言っていた。確か、9月の12日頃からとと言っていたが、ある記事では13日とか15日とかはっきりしない。イスラム教の偉い人が月の満ち欠けで決めるそうだ。そして、ラマダンが明けるまで凡そ一ヶ月間にわたる苦行が続く。日本で言う断食とは少し違う。イスラムでは日の出から日没までの間は食べ物はおろか水さえ飲んではいけない。朝は食事のために、朝 3時から食事の準備し、日が暮れる6時半には一斉に夕食を食べる。今月の半ば頃にはラマダンが明けると、ごちそうを作って皆で無事にやり遂げた事をお祝いする。 私が撮影した「女たちのお祈り」は一番気に入っている。
 この小さな子どもも大人たちと一緒にいた。

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| アチェに骨を埋めた日本人 |
10月1日(月曜日)曇り 相変わらず今日も寒い。細かい雨が降っている。 次回の企画の中に考えられるシーンがある。インドネシアもかつてはオランダの植民地だった。そんな植民地と商売をしていた日本人が大勢いた。中には貿易会社の社員だったり、一旗上げようと大志を抱いて渡って来た人もいた。 州都バンダアチェの中心部に大きな墓地がある。「Krkhof Peutjoet」と呼ばれている。オランダ語で墓地と言うそうだ。この墓地には日本がスマトラに上陸して軍政を敷く前、1873年から1942年の間にアチェで亡くなったオランダ人が2200人も埋葬されている。
 そのほとんどの人はオランダ軍の指揮官だったり兵士だったりする。この墓地には大正時代に亡くなった日本人も含まれていた。墓石には熊本や長崎の地名がかすれ風化した漢字で書かれていた。
アムリさん一家でこの墓地を17年間も守ってきた。アムリさんにサクラさんの話をしたら 時々、ここで花の盆栽?を買ってくれるそうだ。写真にもあるように墓地に入った所に沢山の花が鉢に植えられていた。

アムリさん一家の記念写真(写真はサクラさんに送ったので多分届けてくれただろう) 注:文章はインドネシア文化宮ブログ「アチェに死す-1」より参照
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