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吉丸 昌昭

Author:吉丸 昌昭
ドキュメンタリーの重鎮だった牛山純一氏の率いる日本映像記録センターに所属し、「すばらしい世界旅行」や「知られざる世界」などドキュメンタリー番組のカメラマンとして世界各国を取材。現在は、映像製作会社の代表プロデユーサーである。

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ドキュメンタリー映画「二つの故国をつなぐ歌」              その後の反響は
「二つの故国をつなぐ歌~Diva早春賦をうたう~」 このブログでは製作時のこぼれ話や上映後の反響などをご紹介していきます 。
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続・二つの故国をつなぐ歌
9月30日(日曜日)雨
昨日から、異常な寒さである。小学校1年生になった孫の運動会が昨日、今日と、この雨で中止、火曜日に順延になってしまった。火曜日では楽しみしていた父兄も、じじ、ばばも行けるかどうか分からない。孫いわく「お客さんが来ないなんて意味ないよ』と。
さて、再びこのブログも日記風に出来るだけ毎日書き込んで行こうと思う。今後の大きな上映会が予定されているのでお知らせします。あくまでも予定ですので、決まり次第情報をブログでご覧ください。
◯12月8日(土曜日)夕方6時頃から。長野県安曇野市民会館
 ドキュメンタリー映画「二つの故国をつなぐ歌」上映と大東亜戦争の顕彰
 昭和16年12月8日 真珠湾攻撃から日本は泥沼の戦争に突入していった。そして、20年 
 8月7日 アチェのサクラさんが誕生した。1週間後に日本の敗戦。
此の映画が上映されて一番多かった意見は、 ”なぜにサクラさんの父親池尻昌言は、インドネシアに戻らなかったのか”、”手紙一本出しても良かったのではないか”もっと辛辣なアチェでの意見は ”武士の子孫だった池尻は、サクラさんとエマをほって帰国したのか?
父親を捜すサクラさんの姿が描き足りない” 製作者として、もしかしたら一番痛い所を指摘されたような気がした。このブログでもエマさんとサクラさんの親子の新しい情報を書きこんだ。しかし、エマさんの再婚で終わっている。
 助成金を頂いた芸術文化振興基金の審査試写会で審査委員の方々は「感動しました。是非、続編を作って下さい」と言われた。しかし、ずーと今日に至るまで悩んで来た。「続編とは?、次回のテーマは何か?」
次回作に「続・二つの故国をつなぐ歌」の調査と取材が始まった。
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エマの再婚
サクラさんから頂いたCDを聴きながらブログを書き込んでいる。カントリーウエスタンである。サクラさんがお気に入りのTantowi Yahayaという歌手がムーデイーに歌っている。2枚頂いた中でもMANADOというタイトルのCDが私も好きで、ラジカセから流れている。
池尻は別れ際にサクラさんに30センチ大の人形を渡したそうだ。日本人形だろうか。エマとサクラは三人が逃れて住んでいたメダンのラデンサリー通りの家で静かに池尻の戻ってくるのを待っていた。サクラさんはエマから聞かされたのは「お父さんは、ドラム缶風呂によく入っていたよ」と笑いながら話していた。また、「私が7才の時に新しいお父さんが来た。フシンさんという国軍の主計少佐だった人から求婚された。」エマさんのお父さんは「もう、7年にもなるのだから、池尻は戻って来ないと判断して再婚することを許したのです。」
Tantowi Yahayaが歌うカントリーの歌声がもの悲しく聞こえる。
エマは池尻が戻るのを待っていた
エマと池尻の結婚は1943年または44年(昭和18年か19年)頃だったと推察される。
残念ながら、今回のインタビューで聞きそこなっている。


エマと結婚した池尻昌言
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左は(木で見えにくい)エマたちが住んでいた家。右側はエマが再婚した後に建てた家。

池尻の娘である真紀子は言っていた「池尻の父は、本気でアチェに残るつもりだった」と。サクラが誕生したのは1945年8月7日である。一方の真紀子は8才だった。サクラがもの心が付いて父、池尻を探し始めたのも7、8才だった。二人の立場が1945年8月15日を境に逆転するのである。野村殖産にいた池尻はエマと乳飲み兒だったサクラを連れてメダンに逃れた。(逃れたのは特務機関にいたからと推察)しかし、日本の敗戦と共にオランダ軍の追跡に逃れることが出来なく、エマとサクラをメダンに残して引き上げ船でシンガポールから日本に帰国してしまう。乳飲み兒を抱えたエマの心境を推しはかると私は胸の詰まる思いだ。それから、7年。サクラは7才になっていた。エマは池尻が書き残した「私は池尻昌言と言い、この子はサクラと命名。必ず戻って来る。住所は東京の何なに・・」という一片のメモを信じて待ち続けた。

エマさんと池尻の結婚
バンダアチェに近かい海岸に日本軍が上陸した記念碑がある。地元の人たちが立てたそうだ。ここには2回目の取材で訪れているが、荒れ果ててかろうじてインドネシア語で1942年3月12日(昭和17年)と読める。
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また、1942年12月20日付きの毎日新聞にアチェ州のタケゴン(バンダアチェから車で6時間の距離)で、「日本軍の池尻部隊長が中心になりコーヒーや紅茶を栽培している」という記事がある。1943年に池尻は現地除隊して野村殖産東インド会社のアチェ支店を立ち上げたという話を聞いている。この野村殖産東インド会社にエマさんやハビバさんは勤めていた。エマさんが18才ぐらいの時か。(エマさんは1925年生まれ)映画では述べられていないが、池尻は1940年に正式に離婚し、戦地に行っている。エマさんとの結婚は2度目である。アチェではイスラム教徒が多く、他の宗派との結婚は許されないほど戒律が厳しい。エマと言う名前からしても、イスラム教徒ではなかったと思われる。サクラさんは結婚する前はクリスチャンだったが、ご主人のNarukayaさんがイスラム教徒なので改宗したと言っていた。
健在だったエマさんの友人
池尻昌言叔父が住んでいた家の近くにエマさんの友人が今でも健在だと言うのだ。「何と!」早速,サクラさんに案内してもらう。Habibaah(ハビバ)さんというかなりの年を召したおばあちゃんだった。「お年は?」と聞くと75才だと言う。インタビューを長尾君がして、私がビデオカメラを廻した。エマさんとの関係は「私とエマは池尻が経営していた野村殖産に一緒に勤めていたのです。池尻は、私たちにはとっても優しかったです。年は75才です。」え!・・戦後62年として,当時は13才、そんなわけがない。エマさんが1925年生まれだから、生きていれば82才・・おかしいなとEllyさんに問いつめると,周りにいた家族から「82~3才だと思うけど,生まれたのは何年か分からない」と笑いながら答えていた。ハビバさんは、エマさんと似たような年齢かもしれない。この国の平均寿命が60歳代とか。四季の移り変わりのない南国では70才も80才も大差がないのだろうか。
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 左側がエマさんの友人、ハビバさん(写真は少しピンがあまい)
ハビバさんは「池尻の方からエマさんに求婚し、しばらくして池尻と結婚式を挙げました。池尻は、エマを連れてアチェから東の方の町モラボーへ行き、式を挙げた」と。なぜ,アチェでなく地方の町で式をあげたのだろうか。「池尻はインドネシア語は話せたんですか」という質問に「インドネシア語で会話していました」「二人は何時も一緒で、本当に愛しあっていましたよ」とハビバさんは語っていた。池尻が話せたとすれば、スマトラに上陸する前からかなり勉強したのだろうか。私たちの推理は、野村殖産という会社を隠れ蓑にして日本軍の特務機関(スパイ活動)として暗躍していたことは間違いがないように思う。

サクラさんの父、池尻昌言が住んでいた家
サクラさんの叔父にあたるJohnさんは池尻さんが住んでいた家が今でもあると言う。「え!今から60年以上も前の家が?未だあるのですか」私には信じがたい話である。何はともあれ案内してもらった。20070921221453.jpg

家は交通量の多い道路に面していた。基礎も,コンクリートで固められていて、60年以上も経った家には見えない。Johnさんはこの家(写真の家)だと言う。テラスが玄関を兼ねたインドネシアでよく見かける家である。昌言叔父はここでエマさんと一緒に暮らしたらしい。昭和17年に日本軍はアチェに上陸した後の話であるから、多分、野村殖産を立ち上げた頃か、この家のドアーをノックしたが主は不在であった。この家のテラス前でサクラさんとJohnさんに当時の事をインタビューした。Dirhamさんの友人であるEllyさんという京都大学に8年居たと言う方に通訳してもらった。池尻は現地の人にも、駐留する日本軍の兵士からもすごく恐れられた軍人だったそうだ。インタビュー後、サクラさんがビックリすることを言った。
1953年4月に撮影された写真
大川さんがアチェを離れる9月4日の午後、サクラさんの自宅で昼食に招ばれた。その日、サクラさんの叔父のJohnさんも一緒だった。大川さんと一緒にサクラさんの生い立ちを聞く事になった。Johnさんが旧い写真を見せてくれた。サクラさんとエマさんの兄弟が一緒に写した家族写真だった。所々が破れ傷がついていた。裏面に1953年4月 Medanという撮影したであろう日付と場所が書れていた。今から54年前のものだ。またしてこんな貴重な写真が今頃になって出てきたのか・・悔しくてならない。

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前の列、真ん中の少女が8才9ヶ月のサクラさんである。エマさんは前列の左の子どもを抱いている婦人だ。(抱いている子どもは兄弟の子どもとか。)Johnさんは前列右から二人目の少年。サクラさんがもの心がついて父親を捜し始めた頃だろうか。父親の池尻昌言叔父にそっくりである。
サクラさんの叔父
サクラさんの叔父さんにあたるJohnさんに会う事ができた。Johnさんはサクラさんの母、エマさんの弟にあたる。私がアチェに来ると言う事でメダンからわざわざ来てくれたようだ。以前にイトコの真紀子からJohnさんの事は何となく聴いていた。7人兄弟でエマさんが唯一女の子だったそうだ。サクラさんの叔父とはいえ年はほとんど違わない。20070919224334.jpg

Johnさんは池尻のことは昨年亡くなったお兄さんから良く聞いたとの事。しかし、何で我々が取材した時にこの「Johnさん」の事が話題にならなかったのだろうか。「私は池尻に抱かれたことがあった。しかし、一才ぐらいだったから全く記憶にない」とJohnさんは言っていた。池尻とエマさんとの点と線がもう少しはっきりしただろうと思うと悔しい。そして、Johnさんから新たな情報を得る事が出来た。それは、明日以降ブログに書き込むことにした。
我が子の死を信じたくない
昨日,書いたように孤児院をサクラさんのファミリーと訪れた時、Divaのお母さんDianの表情が暗かった。彼女が一人離れて施設の中を見ている姿が印象的だったと同行の長尾君が語っていた。「津波で亡くなった子Diraがもしかしたらこの施設にいるのでは・・」そんな感じがしたそうだ。
私は,帰国する前の日にサクラファミリーの墓地に行き、お参りした。昨年の12月取材で墓参した時から凡そ、8ヶ月。墓地のまわりの木々が大きくなっていた。亡くなったDiraが葬られている木も大きくなり,時間だけが無性に経っているのだなと実感した。
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  昨年12月26日、津波2周年の時にファミリーで墓参した。
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  Diraが葬られている木が大きくなっていた。
 サクラさんは、津波で亡くなったDiraが葬られている大きくなった木を見ながら「Dian(Divaのお母さん)が墓石を作りたがらないの。私はDiraがふびんだから、近いうちに墓石を作ろうと考えてるのよ」と言っていた。たった5才という短い生涯だったDiraの死を未だに信じたくない母親の気持ちが痛いほど伝わって来る言葉だった。
安曇野の善意は津波で孤児になった子どもたちへ
サクラさんたちと協議した結果、安曇野の善意の品物はサクラさんの長男Donyさんが知っているというBanda Acehの「MARKAZ AL-ISHLAH」マルカス・アルイスラフという孤児院に皆で行った。津波で両親を亡くした子どもたちが男女合わせて119名(うち女の子は44人)のかなり大きな孤児院だ。帰る時に孤児院の責任者の方がサクラさんの長男Donyさんが津波以後5回ほど食料などを届けていると言ってた。そんな関係だったようだ。
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私たちがこの孤児院に伺った時,ちょうど子どもたちは全員がお祈りをする前だった。私たちはお祈りが済むまで、しばらく外で待った。私の預かった安曇野からの品物以外に,サクラさんも食料品、お菓子、ジュースなどを持って来てくれた。
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 お祈りする前に手足、顔を洗う
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 コーランを運ぶ子ども
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 二階の集会場に上がる階段の下には沢山のゴムぞうりが脱いであった。
お祈りが終わり、子どもたちと一緒に孤児院の責任者が集会場から降りて来て挨拶を交わした。

サクラさんやDivaちゃんも一緒に安曇野で預かったシオリや鉛筆を渡した。20070917173847.jpg

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お別れ際に子どもたちと一緒に記念写真を撮影した。外にある集会所(別の)には、一度に多くの子どもが集まったため記念写真のシャッターを押す瞬間に「バキッ」という音とともに床が抜けてしまった。私やサクラさんは「あれ!」という顔の表情がおもしろい。Divaは平然としている。彼女は何事にも動じないのだろうか・・・
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床が抜けてしまった集会所
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施設を訪れた時からDivaのお母さんの表情が暗かった。彼女は施設の中を見ている姿が印象的だったと同行の長尾君が言う。「津波で亡くなった子Diraがいるのでは・・」あの津波で亡くなって、今年の12月が来ると早くも3年になる。

安曇野の善意をアチェに
私がアチェへ行く前に安曇野「早春賦愛唱会」の西山紀子さんから安曇野の上映会で募った寄金を基に手づくリのシオリと400本以上の鉛筆を購入し、託された。シオリは使用済みの種々な郵便切手を地元の子どもたちが色画用紙に一枚いちまい貼り,家庭用のパウッチ加工機で作ったそうだ。実に可愛いらしい。鉛筆は1本いっぽんがカラフルで大人でも欲しくなるようなものだった。
当初、上映会に来る生徒たちにお土産であげるつもりでいた。前情報だと500人くらいの鑑賞者と聞いていたが、2000人からとの事で到底足りないので中止した。しかし、何とか、この募った義援金を基にした品物を津波にあった子どもたちへあげたいという善意はどのような形にすれば良いかをサクラさん、DivaちゃんとDivaのお母さんたちと話し合った。なかなか結論が出ない。
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 右側の抱かれた子はDivaの妹Dinda.
映画のラストシーンでDivaが妹をダッコしながら早春賦を歌って聴かせた妹Dindaもこんなに大きくなった。1才半になったそうだ。


地元の文化NGO団体での上映会
今回のアチェ上映会はもう一つの上映会が組まれていた。2000人の上映会があった翌日の9月2日 夜8時半から地元の若手の有力NGO団体 Komunitas Tikar Pandan(KTP)の映写室に30人からの若手アーテイストたちが鑑賞してくれた。サクラさん以下ファミリーも一緒に来てくれた。昨日の学生たちとは違う作品の良し悪しが分かる人たちであるから正直反応が気になった。             「二つの故国をつなぐ歌」の1シーン
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                若手のアーテイストたちとの討論会
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2本の上映が終わった後に,我々を囲むようにして討論会が行われた。サクラさんもその輪に加わってくれた。私と大川さんとの簡単な挨拶の後、先ず言われた質問に「池尻が日本へ戻った後、サクラさんの父探しのたシーンが描き足りない」と「また、池尻は何故連絡がなかったのか」ある若い女性から「早春賦という歌をどのように広めていくつもりですか?」と。サクラさんはさすが、大人である。池尻との関わりなどをそつなく語り、「早春賦は先ずは身内から歌い広めるつもりだ」と言った。演出・構成担当の長尾君から、はじめに言われた質問に少々むきになって反論をしていた。国内も含め、このように作品についての討論会は始めての試みだったので、鑑賞者の冷静な意見が嬉しかった。
上映が始まる頃から屋根を叩くように降っていた雨が止み静かになっていた。
アチェでの上映会は画期的な出来事
我々の上映会にお付き合いをいただいた教育局のコミュニケーション・テクノロジー・センター長のブスタマン・アリ氏は「今回の上映会は”教育の日”の行事として、州教育局の施設で行われ、内容が教育的だったことだ」と語っているように、今回の映画上映会は、同州にとって異例な出来事だった。というのも、文化&社会をテーマにした活動のためには、事前に幾つもの難関をクリアーしなければならない。先ず。「イスラム学者協議会」の推薦状、「イスラム法務局」の推薦状、さらに「文化活動主催地の首長」の推薦状の3通が入手されなければならない。そして、最後に地元警察署から許可が発行されるのだ。
巨大津波後、長年続いたアチェ分離独立運動が終息し、初の知事直接選挙で、地元出身の独立運動幹部のイルワンデ・ユスフ知事が選ばれた。しかし、一方でイスラム色がじわじわと市民生活に浸透しはじめているのも事実である。
(記事はインドネシア文化宮のブログから転載)
そんなアチェでの上映会を開催出来たことを、日本のマスコミは何故記事にしないのだろうか。我々の上映会は立派な民間外交だと私は思っているのだが・・・・

我々の映画が州教育局長からお褒めを!
昨日は、安倍首相退陣ニュースとスマトラ沖の巨大地震というBigニュースが昼から夜遅くまでTVや新聞のトップニュースとして流されていた。
再び、アチェでの上映会の様子をブログに書き込む事にした。既に、2000人近いアチェの生徒たちが映画を鑑賞したことは書いている。州政府の教育局長のアナス・アダム氏は「いずれの作品も教育的内容の含んだすばらしい内容だ。是非,他の県にも送って上映会を開催したい」とお褒めの言葉をいただいた。私は「二つの故国をつなぐ歌」と「稲むらの火」の映画のDVDを計14枚を教育局長に送った。
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 DVDを贈呈する吉丸
(写真と局長の言葉はインドネシア文化宮のブログより転載)

またスマトラで巨大地震
9月13日(木曜日)朝,9時
アチェでの上映会の模様をブログに書いている最中にまたもやスマトラでの巨大な地震が発生したとTVニュースが報じていた。すぐさまジャカルタに滞在中の大川氏にメールを入れたが、多分現地へ駆けつけたのだろうか。
ニュースは下記のように報じている。
インドネシアのスマトラ島南部のインド洋沖で12日午後6時10分(日本時間同8時10分)ごろ、マグニチュード(M)8.2の大きな地震があった。社会省当局によれば、これまでに7人が死亡、27人が負傷した。さらに犠牲者の数は増える恐れがある。日本の外務省によると、邦人の被害は報告されていない。(時事通信)
今の所。アチェでの被害はないようだが、アチェに国際電話をかけて実情を把握しようと思っている。

「教育の日」のイベントに招待される
9月2日(日曜日)
アチェ州「教育の日」に我々はイベントへ招待された。アチェUniversitas Syiah Kuala大学の校庭がパレードの会場になり,州副知事が参加。文化、教育方面で活躍した人たちが表彰された。20070912225807.jpg

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副知事のイルワンデイ・ユスフ氏
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表彰が終わり,会場をACC(Academik Activity Center)に移し、文化ショーでは、アチェの教育費史を大型のスクリーンに投射、舞台では、コメデイー,舞踊、音楽が多様なパフォーマンス演じた。サクラさんの孫の一人であるDisyは合唱団の一員として出演した。Disyを観るためにサクラさんファミリーが観客席にいた。20070912232423.jpg
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大型画面に映し出されたアチェの教育史はAVを屈指した演出が好評を博した。
参考ブログ:
インドネシア文化宮(アチェで日本のドキュメンタリー&アニメ映画を上映)

サクラさんからの大歓迎
アチェでの最大の目的である上映会が盛会に終わったのは喜ばしいかぎりである。2000人からの中高校生が1日に4回も鑑賞してくれるなんて予想もしていなかった。アチェ州はインドネシアで唯一イスラム法が制定されている地域である。この法律は上映会などの人が集団で活動をすることが難しいと聞いている。上映にあたって州政府教育局や地元の有料新聞である「SeranbI Indonesia 紙」が随分苦労をしてくれたことであろう。せんえつながらこの映画は本当に”二つの故国をつないでくれたのかと思うと感無量である。
夕食は,サクラさん一家とシーフードレストランでごちそうになった。20070911225926.jpg

この写真には,私たちが日本から上映のために来てくれると言う事で長女のデウイさん、長男のドニーさんがジャカルタから。また、さくらさんのお母さんエマさんの弟・ジョーンさん夫妻がメダンから来た。勢揃いである。
2000人近い生徒が観た!
上映会場は約400席のイスはまたたく間に埋まり,他の部屋から持ってくるほどだった。1回目は多分500人からの生徒たちが観たことになるだろう。併映の津波をテーマとしたアニメ映画「稲むらの火」はインドネシア語タイトルを「Api Nyawa(命の火)」とした。インドネシア語字幕付で、字幕だけで、はたして理解ができたか心配した。しかし,私たちが子どもの時に時代劇で「鞍馬天狗」がさっそうと画面に現れると拍手喝采した時のように、主人公のヒーローの活躍にやんやの拍手する姿に,アチェの子どもたちの純粋さを感じた。20070910221907.jpg

1回目の上映が終わって、会場に来ていたサクラさんが挨拶をしてくれた。サクラさんは女子生徒からの拍手に満面の微笑みをたたえていた。


サクラさんの堂々と貫禄ある挨拶は観客から惜しみない拍手がわいた。
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朝,8時半から上映が始まり、午前中に2回,そして,昼食を挟んで2時半から夕方6時までに2回、合計4回上映された。最終の4回目は「二つの故国をつなぐ歌」のみで6時に時間切れになったのは残念だった。6時からイスラム教ではお祈りが始まるためである。
観客動員数は恐らく2000人近くになったと思われる。
満足げな顔で退場する女子生徒たち
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サクラさんたちと会場で記念撮影(白いベールを被るのがDivaちゃん)




1回目の上映にDivaもいた

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上映が始まる前に,アチェ教育局長のDrs.Anas M.Adam氏の挨拶、そして、私たち(大川さんと私)が生徒を前に挨拶した。「二つの故国をつなぐ歌」と「命の火」(日本題名:稲むらの火)の順に上映した。 


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一回目の上映会はアチェ第一中学校の生徒たちが鑑賞した。中学に進級したばかりのDivaもいた。(アチェでは7月が新学期である)前日に先生は「明日は映画会があるからノートと鉛筆を持って行くように」Divaは「今日の映画に私が出演していることは先生は知らないのよ」と。

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イスラム教では男女が同じ席にいることが禁じられているためか、座る位置もきっちり男女の区別がされており、女子は必ずベールを被っているのが印象的だった。私は彼らがどのシーンに反応するかをメモしてみた。
◯Divaがサッカーボールを頭で受ける(おーという声)◯新幹線に乗る~池尻昌言(さわぎ、手をたたく)◯オルゴールの前で皆が歌う(一緒に唄う生徒がいた)◯除幕式で拍手するシーン(皆が拍手した)◯DivaがDindに歌って上げるラスト(多くの生徒が笑っていた)◯津波で川が氾濫するニュース映像は実体験した彼らも悲鳴に近い声を出していた。ちなみにDivaはラストシーンで妹のDindaに早春賦を歌って聴かせるところが恥ずかしかったとか。私たちはこの作品「二つの故国をつなぐ歌」と「命の火」の2作品をアチェ州の他の地域でも上映が出来るようDVDビデオにしたものをプレゼントした。


いよ、いよアチェで映画が初公開される
9月1日(土曜日)
 いよいよ、待ちにまったアチェでの映画上映である。この映画が完成した3月末、アチェでの上映を絶対しなくてはならないと考えていた。それにはナレーションとテロップがインドネシア語であることが必須条件である。そんな中、インドネシア文化宮(GBI)の大川さんとの出会いがあり、私にとって難題だった日本語ナレーションやテロップの翻訳が一気に解決した。その後、インドネシア語のナレーターも「リリイ・ユリアンテイさん」という素晴らしいナレーターが起用できたことなど、インドネシア文化宮(GBI)の大川さんには感謝してもしきれない。
まして、アチェでの上映会が州政府と地元有力新聞共催でここまで大きく開催される事が3月末の時点では考えられなかった。アチェのサクラさんファミリーもきっと同じ思いであろう。
映画が完成したばかりの4月14日、インドネシア文化宮(GBI)で行われた『アチェ伝統刺繍文化展』(2007.4.14~6.16)のオープニングで特別上映された。私にとってインドネシア通の観客にどれだけ受け入れられるかのテスト的な意味もあった。さらに、5月10日には国際交流基金ジャカルタ日本文化センター、じゃかるた新聞、インドネシア文化宮の共催で、ジャカルタでも上映された。日本語版ではあったが、いずれも理解されたことが、今回のアチェでの上映に対して自信になった。
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アチェ州 教育局長に挨拶
8月31日(金曜日)
昨晩は何だかだで寝たのが12時過ぎ、今朝のアチェ行きのガルーダGA178便は6時15分発。大川さんとは再び、眠い目をこすりつつ空港で合流した。8時15分にはバンダアチェに到着する。
写真はアチェの上空、2年半前、津波直後に上空から見たときはこんなに緑が多くなかった。


空港には、朝早いのにサクラさん、次男のDevyさん、長女のDewiさん、次女Dian、Dirham夫妻、運転手のアントンさんが迎えに来てくれた。大川さんの流暢なインドネシア語でサクラファミリーと会話が弾む。先ずは,ホテルCAKRADONYA(チャクラドーニヤ)に。今日は金曜日なので、午後はイスラム教徒はお祈りをする日なので、教育局への挨拶は午前中に済ませた方が良いようだ。早速,教育局へ。


今回の上映会の共催をする「Seranbi Indonshia 」の編集長が迎えに来てくれていた。
昨日、新聞に上映会の記事が大きく掲載されたので反響も大きく,上映会は1日,4回になったそうだ。


          8月30日付けの上映会の新聞記事(Sranbi Indonesiaより)
少し,待たされて教育局の局長、Dr.Anas M.Adam氏をSeranbi編集長から紹介された。
大川さんのインドネシア語が炸裂!私と長尾君はもっぱら聴き役だが99%分からない。
今回の上映について私からも簡単な挨拶をした。大川さんが同時通訳してくれた。
帰り際に明日の会場を下見をする。立派な講堂だ。舞台も付いている。収容人数は400人ぐらいか。今回のインドネシア上映のために作品は、インドネシア語版を製作し、インドネシア文化宮、大川さんに翻訳してもらった。PALシステムに変換したDVDである。
 2時という遅い昼食。サクラさんの次男で、ホテルの実質的な経営者であるDevyさんがご馳走してくれた。最近出来たパダン料理レストランである。ここでDivaとも久しぶりに会った。インドネシアの新学期は7月で、Divaは中学に進級したそうだ。
アチェでの上映会へ出発
8月30日(木曜日)
待ちにまったインドネシア・アチェの上映会が9月1日に開催される。成田発の中華航空(チャイナエアーライン)CI-107便の台北行きは9時40分発。
台北の空港にて 私たちが乗る飛行機


香港の空撮



台北で乗り換えて香港経由、ジャカルタへ。両方の便とも満席である。ジャカルタへはJALなどが直接飛んでいるが,安さにはチャイナエアーラインに比べようがないが、安いだけ所要時間がかかってしまうのは仕方がない。エコノミー症候群になることを考えれば途中下車も楽しである。
夜,8時20分着。コーデイネーションをお願いしているインドネシア文化宮の大川さんとはジャカルタの空港で合流だ。VIZA更新のため、シンガポールから8時40分に到着、再入国である。インドネシア入国にはVIZAが必要であるが,空港でUS25$で1ヶ月まで滞在OK。運良く、大川さんとVIZAセクションんで合流した。

上映会のクライマックス
8月26日のブログが途中で終了してしまったのは,時間切れである。既にお知らせをしていましたが、上映の2日後にインドネシア行きが控えており、多忙のために時間切れになりました。この文章は帰国後の9月7日に思い出しながら書き込みをしたものです。
8月26日 15時ごろ
「二つの故国をつなぐ歌」が始まった。私も改めて文化会館の大きな画面とサラウンドの臨場感いっぱいあふれる雰囲気にひたった。今回、一連の上映会で一番映画らしい鑑賞が出来たのではないだろうか。もう何回この作品を観たであろうか。後ろの席では始めはぼそぼそ話し声が気になったが、いつの間にか鼻を”すする”声が聞こえた。サクラさんが日本のお墓で父の墓石をなでているシーンが一番感涙をさそうようだ。
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 上映時間は46分である。場内の電気がついた。観客は立ち上がらない。私は会場を出、
帰るお客様に一人ひとり挨拶をした。「吉丸さん、なんで挨拶しないの」「感激して泣きぱなしだったよ」「壇上で挨拶があると思ったよ」どうも立ち上がらなかったのは、私の観客への挨拶があると思ったようだ。しまった!(このしまった!という気持ちがその後、ジャカルタへ行くまで尾を引いてしまった)
8月27日(月曜日)
朝、9時会場で募金された「中越沖地震への義援金」を持って,大町市長室へ。
市長も昨日は鑑賞なさったそうだ。感激したとのこと。この尊い義援金は、市の福祉課から日本赤十字へ送っていただく。総額3万5700円にもなった。上映会が少しでも災害に役立ってくれれば、こんな嬉しいことなない。
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牛越大町市長に義援金を託す私と塩原さん
さて、明日からインドネシア アチェでの上映会の模様を細かにブログに書き込んで行きます。お楽しみに!



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