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吉丸 昌昭

Author:吉丸 昌昭
ドキュメンタリーの重鎮だった牛山純一氏の率いる日本映像記録センターに所属し、「すばらしい世界旅行」や「知られざる世界」などドキュメンタリー番組のカメラマンとして世界各国を取材。現在は、映像製作会社の代表プロデユーサーである。

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ドキュメンタリー映画「二つの故国をつなぐ歌」              その後の反響は
「二つの故国をつなぐ歌~Diva早春賦をうたう~」 このブログでは製作時のこぼれ話や上映後の反響などをご紹介していきます 。
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映画予告編をYouTubeに公開しました
予告編を動画共有サイトYouTubeに公開いたしました。
下の画面をクリックすると予告編が再生されます。
是非ご覧下さい。

ご注意!ネットワークの速度が遅いと、データのダウンロードが完全に終わらないとスムーズに見れないことがあると思います。恐れ入りますが、動画の下の赤いバーが完全に横に伸びた状態が、データを全てダウンロードした状態ですので、
その状態になるまで待ってから、再度再生すればスムーズに見れると思います。

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早春賦との出会い(2)
サクラさんは穂高町(現安曇野市)で「早春賦」の歌碑建立の式典に参加したあと、姉の真紀子と安曇野の観光を楽しんだ。わさび田、国宝の松本城を巡った。母は違うが同じ父を持つ二人は、言葉の壁を乗り越えて、身振り手ぶりでも意思疎通がはかれたと真紀子は言った。20070224223500.jpg

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二人は松本から群馬の竹田氏のもとを尋ねた。サクラさんと吉丸家(池尻)を太い糸でつないでくれた恩人であるのだ。

予告編の完成
サクラさんの「早春賦との出会い」という項目でちょっと一休みして製作状況をお知らせします。
映画館にでよく見るスタイルの予告編を作成しました。”近日公開” 的なものです。4分のDVDです。
Divaが妹のDira(8ケ月)をハンモックにのせて早春賦を唄っているシーンから始まります。歌は正直あまり巧くありません。全然下手で調子が外れてます。でも可愛いので思わず苦笑してしまいますが。折井さんのマンドリンが哀しく奏でるのでホロッとしたり・・・
試写を希望する方は住所、氏名、また私どもとの関係を明記して下記のアドレスへメールで連絡を下さい。 
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予告編用DVD希望の方
yoshimaru440@unimoto.jp または y-masamaru@jcom.home.ne.jp
そして、早春賦と出会う
サクラさんは父に会う事が出来なかった。しかし、池尻昌言の兄・吉丸昌武(私の父)が「サクラさんの父親の代わりになる。弟の責任は兄の私が負う」と名乗り出てから、二つの故国ががつながった。その後、姉の真紀子がバンダアチェを訪問した。
昭和59年4月、サクラさんが来日し、信州の安曇野穂高町(現在安曇野市)を訪れた。「早春賦」の歌碑が建立される日だった。サクラさんは安曇野で祖父の名曲「早春賦」が流れるのを聴き、感激に浸ったという。「早春賦」との出会いである。
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昭和59年4月 安曇野・穂高町(現安曇野市)の早春賦の歌碑前で 右端 養父の吉丸昌武

サクラファミリーとの交流
毎日新聞を見て、早速、新聞社に連絡を入れたのはもちろんである。そして、間を取り持ってくれた高崎市の竹田悦三氏に父は手紙を書き、
「池尻昌言は私の弟である。弟は昭和47年7月に亡くなった。弟の代わりに私が親代わりになる」と書いた。
そして、8月16日の毎日新聞の全国版 ”死んでいたまぶたの父”という大きな見出しで報じた。
記事は ”父親は2年前に病死していることが終戦記念日の15日にわかり、サクラさんの再会の希望は夢と消えた”と書かれていた。
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瞼の父は亡くなっていた
昭和49年8月2日、私の父の家にサクラの異母姉妹である末浪(旧姓池尻)真紀子が丁度大阪から上京していた。父の家では毎日新聞を購読していた。新聞を見ていた真紀子が大きな声で「おじさん!この記事見た?このサクラはお父さんの子じゃないかしら」私はその記事の事を父からすぐ連絡があり知った。それから私の家は大変な騒動だった。当時このような出来事がよくニュースになっており、人ごとのように思っていた。
しかし、サクラさんの父は2年前、昭和47年7月に既に亡くなっていた。
元近衛第4連隊の竹田さんとの出会い
サクラさんが父を探し始めて20数年が経った昭和49年7月、戦時中、アチェに近衛歩兵第4連隊として駐留していた竹田悦三を中心にした戦友会の22人が戦跡訪問のためにバンダアチェを訪れた。
その竹田さんの滞在するホテルに、インドネシア人女性の通訳と二人の婦人そして子供3人が尋ねて来た。通訳を通してその婦人が「私のパパを探してください」と。この人がサクラさんだった。サクラさんは日本語で書かれた便せんのメモを見せてくれた。そこには「私は池尻昌言です。この子は私の娘です。私がサクラと命名しました。今は日本が敗戦になり、私は日本に帰るが必ず迎えに来るから待っていてくれ」と書いてあったそうです。
竹田さんは、帰国後すぐに自分が住む、群馬県高崎市役所にある記者クラブで記者会見をした。そして、8月7日毎日新聞の全国版に載った。この記事によりサクラさんのその後の人生ドラマ第2章が始まる。 写真は毎日新聞/昭和49年8月6日付けの記事
  も一つ下の写真はサクラさんが竹田さんを尋ねた時。サクラさん右端。(撮影:竹田悦三氏)
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瞼の父に会いたい
サクラの姉、末浪真紀子がお父さんから聞いた話では、お父さんはバンダアチェの母エマさんの実家で世話になっていたそうだ。オランダ軍からも追われており、そこへ、エマさんの父が「引き上げ最後の船が出るそうだ。この船に乗り遅れてはもう日本にもどれない」と言い、エマさんの父はハシケを出して池尻を引き揚げ船に乗せたとのこと。帰国してかもB級戦犯の身であったので隠れるようにして京都にいた。当時の日本人は誰もが貧しくて食うや食わずの生活をしていた。インドネシアに戻る事も叶わなかった。そして、昭和26年、戦犯が解除になった。一方、物心がついてきた6才になるサクラさんは、どうして私にはお父さんがいないのかと言って母のエマさんを困らせたそうだ。6才と言えば小学校に上がる頃であろう。母のエマさんは間もなくして再婚。その義理の父親が良い人で、幼いサクラと一緒に父親探しを手伝ってくれたそうだ。
戦後、日本の商社の人々が再びスマトラのメダンやバンダアチェに来るようになった。日本人が来たと聞けば”私はお父さんを探しています”という声をかけたそうです。しかし、まともに聞いてくれる人は現れなかった。
サクラさんの誕生の秘話
サクラさん誕生と日本人の父
ブログをオープンして早くも1ヶ月近くになります。この時期に、もう一度この映画製作の意図をはっきりさせなくてはなりません。先ずは、この映画の主人公であるサクラさんの誕生について述べたいと思います。
 サクラさんの父、池尻昌言(母方の池尻家に養子になる)は、昭和12年頃招集されるまでは京都松竹の宣伝部に在籍していました。北支、仏印と転戦しながら近衛師団の将校として、昭和17年3月にシンガポールからスマトラ島アチェに上陸。同18年に何故か現地除隊し、国策会社であった野村殖産東インド会社のアチェ支店?を立ち上げている。その頃、サクラさんの母親エマさんと知り合ったそうだ。そして、サクラさんは日本が敗戦になる1週間前の昭和20年8月7日に誕生している。父・昌言は終戦の翌年、昭和21年、バンダアチェから逃げるように帰国した。B級戦犯だった。
帰国する時、父・昌言は一片の日本語のメモを遺していた。“この娘はサクラと命名する。戦争に敗け、やむなく日本に帰らなくてはならない。かならず戻って来るから。”と。そのメモには日本の戸籍の住所と名前が書かれていたという。写真はサクラさんの父 池尻昌言
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晩年のサクラさんの母 エマさん(4人の孫に囲まれて)
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バンダアチェはマグロがいっぱい!
日誌風でブログを書いていきますとは言ったものの、なかなか、先に進まないので止めました。
これまでも、テーマ的に絞れなくて思いつくまま、撮った写真から文章を書き入れておりました。
12月27日、早起きしてホテルから近い所にある魚市場に行ってきました。ここには、漁をした漁船が着く漁港でもあります。日本でもおなじみのイカ、さば、カツオ、エビなどが水揚げされていました。また、目についたのはあの話題の魚、マグロがいっぱい揚がっているのには驚きです。
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しかし、冷凍設備が津波で破壊されてしまい、その日に消費しなくては暑さですぐ痛んでしまいます。冷凍設備と流通が完備されていない悲しさです。日本の商社がなぜ目を付けないのでしょうか・・・

イスラム女性が被るベール
敬虔なイスラム教徒の多いインドネシアの女性が必ず被るベールをジルバブと言うそうです。アチェの市場にはカラフルなジルバブがマネキンに被せて売っていました。一瞬ギョッとしました。
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4~5才でしょうか。小さな女の子の被るジルバブ姿は可愛いものでした。DSC_6561.jpg


ココナツジュースは甘い!
アチェの街道を走っているとココナツジュースを飲ませてくれるお店がある。まずは、適当な椰子を選ぶ。刀のような大型のナイフで実をカットする。熟している(茶色の実が良い)ほど白い果肉が中で大きくなり、そのぶんジュースの量が少ない。 20070204194137.jpg
マグカップのような(瀬戸引きのような)カップに椰子から直接注ぐ。カップには最初から砂糖が大さじで3杯ぐらい入っている。 20070204194245.jpg
最後に、椰子の実から白い果肉(これがココナツ)をゴリゴリとスプーンでそいでカップに入れる。冷たくないから、氷も入れてくれるが、注意しないとこの氷が腹痛のもとになる。 20070204194208.jpg
確かにココナツジュースではあるけど、砂糖が入りすぎて肝心のココナツの味は?よくわからなかった。
映画の挿入曲が作曲されました
マンドリン奏者であり作曲家の折井清純さんがすばらしい挿入曲を作ってくれました。昨年12月、インドネシアに行く前にお願いしていました。リズミックな明るい曲、暗い悲しいリリカルな曲、淋しいゆったりした曲、暗い、中庸なテンポ、5曲目が明るくて可愛いしかものどかな曲です。全部をマンドリンんで演奏しております。その他に既に作りためた「折井清純マンドリン曲集30」も提供していただきました。
 私は待ちきれなくて車のCDで早速聴きました。特に暗い、悲しい曲にはイメージした映像が頭の中を駆け巡ります。自然と涙が出てくるのです。参るよな!最近はやたらに涙腺がもろくて・・・
最後の明るい曲は"夢多き少女・Diva"にふさわしい曲でした。乞うご期待を!


我が愛するDiva
安曇野市で宣伝のために配ったチラシの中にもDivaの写真を載せているが、愛くるしい彼女の写真は人気をよんでいる。
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 ふと寂しい横我を見せる時がある。あの悪夢は一生かかっても消えるものではないだろう。
私はそんな時、抱きしめてあげたくなる衝動にかられるのだ。
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 彼女も敬虔なイスラム信者である(学校へ通うときの素顔)
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早春賦のふるさと安曇野市
2月の1日と2日、私は安曇野市に行ってきた。午後からの大雪は一時はどうなるかと思うほどだった。4月29日に安曇野市で特別試写会を開催するにあたり、早春賦愛唱会の西山紀子女史と一緒に市の教育委員会、観光協会など行政の方々へ挨拶まわりをした。
 私の名刺とにわか作りの映画のチラシを各部所に配った。既に西山女史が根回しをしていただいていたので助かる。西山女史は旧穂高町の時代から20数年間「早春賦音楽祭」を開催し、「早春賦のふるさと安曇野」を全国に紹介してきた功労者ひとりである。
写真は早春賦の歌碑(2月1日 夕方撮影)
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