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吉丸 昌昭

Author:吉丸 昌昭
ドキュメンタリーの重鎮だった牛山純一氏の率いる日本映像記録センターに所属し、「すばらしい世界旅行」や「知られざる世界」などドキュメンタリー番組のカメラマンとして世界各国を取材。現在は、映像製作会社の代表プロデユーサーである。

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ドキュメンタリー映画「二つの故国をつなぐ歌」              その後の反響は
「二つの故国をつなぐ歌~Diva早春賦をうたう~」 このブログでは製作時のこぼれ話や上映後の反響などをご紹介していきます 。
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早春賦の発祥地はどこか!
昨日(8日)、信濃毎日新聞 安曇野支局の記者から電話取材がきた。記者さんは昨年もお会いした方である。取材された内容は安曇野市の情報公開・個人情報保護審議会から「早春賦」の地は安曇野市とする根拠の文書は存在しないが、今まで伝えられている経緯から合理的という答申がなされたという。そのことについて、ご子孫の吉丸さんはどう思うかという質問だった。答申に至るまで私が聞いてきた経緯は川崎市在住のある男性(私もこの方は存知ている)は安曇野市が「早春賦」の発祥の地は安曇野市(旧穂高町)と言っているのは何処に根拠があるのかという意見を再三市の方へ意義を申し立てていたそうだ。「そうだ」というのは、直接このような問題があることは安曇野市から正式に聞かされていない。。
そもそも、「早春賦」の発祥地説の論争(論争と言う大げさのものではない)はかねてから大町市か旧穂高町(現安曇野市)かというものだった。「早春賦」の歌碑は、昭和54年に吉丸一昌の生誕地・大分県臼杵市に建立されているが、その後、昭和59年に旧穂高町の故西川久寿男氏が中心になって歌碑が建立された。大町市の歌碑はそれから遅れる事、15年後の平成11年に建立された。
写真は平成19年2月撮影。安曇野市にある「早春賦」歌碑
DSC_7537.jpg
そもそもが、昭和59年に旧穂高町に建立されてから「おらが発祥地」論争のスタートだったのかもしれない。旧穂高町は建立されて以来、現在まで26年間、「早春賦まつり」というイベントを町をあげて続けてきている。
 意義を唱えた男性は「大町市の発祥地であるという根拠は、大町高校(旧制大町中学)校歌は明治44年に吉丸が作っており、その後、大正2年に「早春賦」が作られている。大町高校の校歌が作詞された時の唱歌担当教師・島田詠次郎は東京音楽学校出身の吉丸の教え子で、島団から言われた大町の風景をイメージして作られたのが「早春賦」であると推論。よって発祥地は大町側の方が正しい・・・という意義を申し立てたようである。
吉丸一昌の孫である私の素直な意見『26年もの長い間「早春賦」を顕彰してきた安曇野市に、なにも、今さら無粋な「根拠論」で意義を唱えるのだろうか疑問に思う。』
DSC_7539.jpg
また、早春賦愛唱会の西山紀子代表(安曇野市在住)は「雪解けの遅い春を待つ心は、北アルプスのふもとに位置する安曇野市でも大町市でも同じ」と言っている。
ただ、私が気になるのは市のパンフレットや早春賦関係のブログなどに書かれている「吉丸一昌が信濃教育会の夏期講習会に講師として訪れた時に作詞された」とか、「先生が大町高校の校歌を作詞された時に安曇野を訪れ雪解けの風景をイメージした」や「先生が穂高川(歌碑のある場所)を歩いてイメージした」といういかにも見たような細かな描写があったりする。この際、どんな推論があっても結構であるが統一した「推論」であることが好ましい気がする。
しかし、川崎市在住の男性が投げかけてくれた「根拠論」は「早春賦」を愛するが故にそうした行動をとってくれた気持ちに感謝したいと思う。これも名曲であるが故の”有名税”なのかもしれない。
 もう間もなく早春賦が作られて100年になる。そして、100周年事業のスタートとして作詞者・吉丸一昌終焉の地、東京本駒込にある菩提寺・龍光寺に四つ目の「早春賦」の歌碑が4月4日に建立される。


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