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吉丸 昌昭

Author:吉丸 昌昭
ドキュメンタリーの重鎮だった牛山純一氏の率いる日本映像記録センターに所属し、「すばらしい世界旅行」や「知られざる世界」などドキュメンタリー番組のカメラマンとして世界各国を取材。現在は、映像製作会社の代表プロデユーサーである。

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ドキュメンタリー映画「二つの故国をつなぐ歌」              その後の反響は
「二つの故国をつなぐ歌~Diva早春賦をうたう~」 このブログでは製作時のこぼれ話や上映後の反響などをご紹介していきます 。
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第28回 早春賦まつり
4月29日 毎年、恒例の早春賦まつりが安曇野市で開催された。今年は東日本大震災や福島原発事故などで、一時は自粛する方向になったとの事。しかし、「早春賦」は人生の応援歌という意味合いのもとむしろ震災被災者に力を与えるという事で開催された。
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私は毎回挨拶をしなくてはならない。今年は、やはり東日本大震災に付いての話をしなくてはならない。4月10日のNHKニュースで感激したことがあった。世界三大テノール歌手であるブラシド・ドミンゴさんがNHKホールで東日本大震災の哀悼と復興への祈りを込めて流暢な日本語で「故郷(ふるさと)」を歌った。朗々と歌う力強い歌声に感動をした。音楽の力強さには東北地方や日本国民に大きな力と感動をもらった。

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ぜひ、ユーチューブでも聞く事が出来ます。感動を呼子と間違いなし!

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花見も自粛
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今年は1月の凍てつく寒さが堪えたのか「さくら」の見頃が遅いようだ。東京の三大お花見の場所である千鳥ヶ淵公園もまだだった。この写真は土曜日現在だから実際は満開に近くなっていると思う。

しかし、花見も自粛で閑散としていた。我々の間では”サクラは健気だな。自粛しているのだよ”と。
今年の流行語は決まりだ。”自粛”、”想定外”こんな言葉を流行語大賞にしたら非難ゴーゴーか。

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靖国神社の茶屋はせめて飲もう!と賑わっていた。「節電のために6時に閉店」という無粋な掲示があった。
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花の季節がやって来た
3月11日を境に、世の中がすっかり変わってしまった。原発の事故で節電と停電の影響は人の心までが暗くなる。
被災地のために「できる事は何か」というのが合い言葉になってしまった。
靖国神社
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サクラの標本木が5-6輪咲き始めた。
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そんな中、花の季節がやって来た。28日東京の靖国神社の標本木が5~6輪以上咲き始めた。
この標本の木が東京の本格的な「花の春」を告げる。昨年より、6日遅い開花宣言だ。
いち早く、筆者の家の周りの桃、モクレンが満開になった。

満開の桃の花、モクレンの純白の花が咲いた。
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しかし、自粛ムードには何かと筆者の会社にも深い陰を残し始めた。「右へならへの自粛?」テレビのどこの
チャンネルからも「ACジャパン!」のCMが流れてくる。いい加減にしろよと言いたくなる。

ご主人を待つ、可愛いワンチャンの姿に微笑みを!!
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戸籍が消滅する
 東日本大震災の津波被 害で宮城県南三陸町が管理していた戸籍データが消失したことについ て、
「仙台法務局気仙沼支局に更新前の資料やその後の届け出書が残っ ており、再生は可能」と述べ、
関連資料を基に復元できるとの見通しを 示した。
 かつて66年前、日本は太平洋戦争で国土を爆弾で焦土化され、何百万の人びとが亡くなった。
我々世代が体験する初めての「国難」であった。
 下の写真は約70年前、昭和12年1月に撮影された筆者の家族の記念写真である。二人の幼子は
筆者の姉たちである。父に抱かれているのが二番目の姉だ。当時2才半。その後、昭和13年10月に
4才で亡くなった。
 
吉丸ルツ子

1944年11月14日以降に106回の空爆を受けたが、特に1945年3月10日、4月13日、4月15日、5月25日の空襲は大規模であった。特に、3月10日は実に10万人の人たちが亡くなった。
そして、筆者の旧本籍である「本郷区駒込動坂町327」現在の文京区千駄木にあたる。現在の戸籍謄本を見ると私たち兄弟は載っているが、昭和13年に亡くなった次女の姉は戸籍から抹消されていた。言い訳の様に”3月に原本焼失した”という説明文があり、書かれている戸籍は後に親族からの申し出により作り直したものだという。何故か、次女は戸籍から抹消されていた。





アチェからの連帯のメッセージ
2004年12月26日(日)、筆者は忘れられない。東日本大震災を遥かに上回る、17万人という犠牲者が出た
スマトラ沖地震と津波。日本の津波被災者に対する、連帯の意思表示が波紋を広げている。
昨日3月18日(金)、州都バンダアチェ(Banda Aceh)の中心部にあるブラン・パダン(Blang Padang)広場で、
犠牲者を悼む市民の集いが開かれた。「ACEH December 26, 2004 FOR JAPAN March 11, 2011」。
アチェは忘れない。日本からの、あの温かい支援の事を。

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バンダ・アチェの子供が、市内の「世界にありがとう広場」(Blang Padang広場)で、日の丸を手に、日本の
津波被災の早期復興を祈った(2011年3月18日・『Serambi Indonesia』紙から)

筆者のいとこ Mrs/SAKURA NARUKAYAさんの孫、DivaちゃんとDaisyさんはおよそ10mの津波を受けたが、
二人とも運良く助かった。しかし、妹の当時6才の三女は津波にのまれ亡くなった。

写真はDivaちゃん(2007年当時)
Diva寂しUP のコピー

あのスマトラ沖津波は、筆者の私たちファミリーとMrs/SAKURA NARUKAYAさんファミリーと強い絆で結ばれた。以来、二度の来日と筆者は3度に渡りアチェを訪問した。Divaちゃん父であるDr.Ir.M.Dirhamshaさんは、
地元の国立大学SYIAH KUARA UNIVERSITYの傘下のTSUNAMI AND DISASTER MITIGATION RESEARCH CENTER
の所長として、また津波研究者として忙しい日々を送っている。




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