訪問者数
プロフィール

吉丸 昌昭

Author:吉丸 昌昭
ドキュメンタリーの重鎮だった牛山純一氏の率いる日本映像記録センターに所属し、「すばらしい世界旅行」や「知られざる世界」などドキュメンタリー番組のカメラマンとして世界各国を取材。現在は、映像製作会社の代表プロデユーサーである。

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

リンク

このブログをリンクに追加する

ブログ内検索

RSSフィード

ドキュメンタリー映画「二つの故国をつなぐ歌」              その後の反響は
「二つの故国をつなぐ歌~Diva早春賦をうたう~」 このブログでは製作時のこぼれ話や上映後の反響などをご紹介していきます 。
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「早春賦」の原点は熊本第五高等学校か
臼杵市から熊本へ、私たちは吉丸一昌の青春時代の足跡を訪ねる旅の続きを書いてみる。
あいにくの雨模様に少々うんざりしながら竹田市から熊本へ向かった。途中、阿蘇の草千里を通過した。普通の路線からの寄り道であるが、滅多に来る機会がないからという息子夫婦のリクエストだ。霧が濃く立ちこめていてほとんど何も見えない。息子夫婦たちと熊本空港で別れて市内に入る。

翌日は、また雨である。2泊三日のスケジュールであれば雨でも強行軍。先ずは、熊本城を観る。前日のホテルから熊本城の天守閣がライトアップされて雨の中に浮かんでいた。
市内には珍しい路面電車が走っていた。
DSC_0127.jpg
 熊本城と言えば加藤清正といわれるくらい有名なお城である。ネットで調べると意外な事が分かるものだ。
「隈本」を「熊本」に改めた事は知らなかった。次の変遷をウイギペアから引用する。
『加藤清正は、1591年(天正19年)から千葉城・隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に城郭を築きはじめる。1600年(慶長5年)頃には天守が完成、関ヶ原の戦いの行賞で清正は肥後一国52万石の領主となる。1606年(慶長11年)には城の完成を祝い、翌年「隈本」を「熊本」と改めた。これが現在の熊本城である。1610年(慶長15年)から、通路によって南北に分断されていた本丸に通路をまたぐ形で本丸御殿の建築が行われた。』 西南の役には天守閣等が焼失し、現在のようになったのは昭和初期から順々に復元されていった。
吉丸一昌が第五高等学校に入学した当時は多分天守閣も焼失したままだったろう。私たちは、昼食を市内のラーメン店に入る。東京では熊本ラーメンという名前は余り見かけない。ラーメンブームは以外や東京だけなのかも。
DSCF1304.jpg

午後も相変わらずの雨模様、しかも寒い。第五高等学校には何が何でも観なくては熊本に来た意味がない。100年以上も前、吉丸一昌がこの第五高等学校にどんな志で入学したのだろうか。そして、どんな青春時代を過ごしたのだろうか。
レンガ造りの校舎が記念館として残っている。
DSC_0141.jpg

DSC_0133.jpg
校舎には黒光りする廊下、教室は当時を再現し、白墨で書かれた字が黒板に遺されていた。
DSC_0138.jpg
窓越しに樫の大木がどっしりと根をおろしていた。この窓から吉丸一昌も樫の木を観ながら青春時代を過ごしたのかと想うと無性に私は目頭が熱くなった。
DSC_0139.jpg
幾多の著名人を拝した名門の旧制第五高等学校。あの文豪・夏目漱石から英語の教師として教えを受け、生涯恩師として慕った湯原元一教授。後に湯原は東京音楽学校の校長として赴任。湯原は赴任後、すぐに吉丸一昌を教授として迎えてくれた。第五高等学校での出会いが後の進路を決定付けることになるのである。

スポンサーサイト
早春賦の歌碑が出来る
先週、春のお彼岸に入る前の日 3月17日に待望の早春賦歌碑が龍光寺境内に建てられた。この所、お天気もなかなか安定しない日が続いていたので、予定の17日が果たしてお天気がどうか気になっていた。幸いに午前中のうちに建立する事ができて内心ほっとした。
クレーンでそろりと丁寧な作業で台座に歌碑が置かれた。
DSCF1434.jpg
歌碑の表面に書家・矢島峰月氏が書かれた「早春賦」の詩は薄いゴムによって覆われている。ゴムをゆっくりとはがすと光沢に磨かれた石の面に”早春賦”の詩文が現れる。感激の時である。
DSCF1438.jpg

DSCF1449.jpg
歌碑の全容が現れた。4月4日には歌碑の左右に左に基金へ寄付された方々の名前が、
右側には作詞者と作曲者が書かれ、関わった方々の名前等が彫られる。

DSCF1452.jpg


早春賦歌碑について
DSC_0198.jpg
私たちが「菩提寺にも早春賦の歌碑を建たい」という想いのもと,沢山の方々が歌碑建立の募金に応じて下さった。本当に,心から嬉しく思います。 すごい!この歌に感じる方の多さに驚くと共に、祖父の偉大さに感服する。
DSC_0188.jpg
この「早春賦」は祖父・吉丸一昌の代表的な唱歌集「新作唱歌」全十集は明治44年に第一集が発行されてからほぼ4年の月日を経て、大正4年に全十集が完成した。今,歌われている曲は中田章が作曲し、一部を章の次男・中田喜直氏が編曲したものである。この早春賦は第三集の中に収められてれている。今,見てもこの表紙デザインはなかなか優れたデザイナーがデザインしている。色合いは今で云う「レトロ調」当然であるが。楽譜の写真は前奏部分である。残念ながら私は楽譜が読めないので・・・
早春賦の歌碑の合成写真
2月立春が過ぎてから異常な寒さに日本列島は被うわれている。毎日のように「今日も,昨日も雪の空」である。
17日、歌碑が建立される場所の整地が始まった。大きな石台の上に何トンもある石碑が載るためか,大きな深い穴が掘られ、基礎をガッチリしなくてはならないそうだ。
DSCF1333.jpg

DSCF1335.jpg

石は緑がかっている。歌碑の石を割った半分の石に右側に作詞者や作曲者なおの名前が刻まれ,左側の石には寄進者の名前が書かれたステンレス版がはめ込まれる。
したの写真は,歌碑の予想写真です(合成写真です):石坂石材店提供。
図面1


立春の次は?
DSCF1316.jpg
 梅に鶯(うぐいす)ではなく、雪が梅の花に降り積もってしまった。この写真は,去る2月2日に降った雪を撮影した。こんなに寒い日が続くのに梅の開花が早かった。今年は7回目の降雪だとのこと。
さて、先にお伝えした「菩提寺に早春賦の歌碑を建てよう」という内容のブログを書いた。現在,歌碑になる石に早春賦の歌を彫る作業に入っている。昔は石工の職人さんがノミで一字いちじカンカンと彫っていったものだ。今じゃ、
電気ノミ?がコンピューターに詩文を記憶させて彫るそうだ。だからあっと言う間だ。石工職人さんはお年を召しており、お願いするだけで大変な時間と費用がかかると思う。次回は歌碑のために選ばれた石を紹介しよう。


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。